Page:Onishihakushizenshu03.djvu/225

提供:Wikisource
このページは校正済みです

を得るかは敢て問ふ所にあらず如何なる方便を以てするも快樂(ἡδονή)だに得らるれば我が幸福はこゝに全うせらる要は成るべく大なる快樂を得るに在り。是れ此の派の根本思想とする所にして其の說く所は即ち純然たる倫理上の快樂說なり。而して其の說に謂ふ吾人各自の行爲の目的と看做す快樂は各人自己の快樂に外ならねば、委しく云へば其の道德論は個人的快樂說なり。

《哲學の要は快樂を得る知見を開くにあり。》〔一一〕アリスティッポスは以爲へらく、快樂の最も大なるものは肉體の樂みなり而して眞實我がものたる快樂は現在のものの外にあらず過去の快樂は已に過ぎて追はむに由なく未來のものは未だ我が所得にあらず故に快樂の中最も主要なるは肉體現在の快樂なり。然れども如何なる快樂も唯だ接するにまかせて之れを取れといふには非ず。現在得らるべき快樂の中にも大なるあり小なるありまた苦痛のこれに伴ふものあり。故に吾人は此等の中に就き何れが最も大なる快樂を現實吾人に與ふるかを見定めざるべからず。之れを見定むる人是れ即ち賢人なり。知見の要は畢竟快樂の選擇をなすに在り。吾人は知見によりて行爲を導き妄りに情慾の發動に任すべからず。能く樂むことを知るは樂みを捨てゝ强