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ひて滿足するに優れり又之れよりも爲すに難し。哲學は此の快樂を得る知見を開くものにして學問の必要唯だこゝに存すと。キレーネ學派の思想の偏へに實際的となれるを看るべし。


《苦樂の生理的硏究。》〔一二〕アリスティッポス其の敎を其の女アレーテー(Ἀρήτη)に傳へアレーテーまた之れを其の子アリスティッポスに傳へたり。キレーネ學徒中殊に此のアリスティッポス等が開祖の唱へたる快樂說の學理的根據として快樂苦痛の生起に關する生理上の狀態を考究しきと見ゆ。其の說に曰はく、諸種の感情の生起は之れを吾人が身體內の物質運動の有樣に歸するを得べしと、又曰はく五官の知覺は吾人自家の狀態(πάθη)を示すのみ外物そのものを示すにあらずと(此等の說はプロータゴラスに據れり)。體內なる物質の運動穩かなる時は快感を覺え劇しきに過ぐる時は苦痛を感じ其の運動の甚だしく微なるか又は全く休止する時には苦痛もなく快感もなしと。

《非社會的。》〔一三〕キレーネ學徒の所謂快樂はもとより各人自己の快樂なり。おもへらく、賢者は世間諸多の煩累の爲めに己が快樂を害ふことをせず故に社會の法律習慣