Page:Onishihakushizenshu03.djvu/174

提供:Wikisource
このページは校正済みです

メリッソスまた論ずらく世俗の見て有となす雜多もし眞に實有ならばその有なるの性體を保ちて滅することなかるべき也。然るに世間雜多のもの一として壞滅せざるはなし。何故に昔時ありしもの今は其の形をだに留めざるか、これ昔時有りしと思ひしもの實に在りしものにあらざれば也。かるが故に雜多變化の界は實有實相の界にあらず。雜多變化をありとする吾人の五官こそ迷妄の根本なれ。五官の示す所は自身に自身を非難するものと謂ひつべし、そはその有りとするもの忽焉として無きものとなれば也。

《折衷說の最好代表者ディオゲネース。》〔三〕當時の折衷的思想は多くはイオニア學派の流を汲めりしが如し。アリストテレースは水と空氣と又空氣と火との中間の物を以て萬物の太原となしたる學者ありしことを記し置けり。折衷說の最好の代表者は


アポルロニア人ディオゲネース(Διογένης

なり。彼れの學說より察するにエムペドクレース、アナクサゴーラス等に後れて出でたる人ならむ。其の說く所畢竟イオニア學派の物活說とアナクサゴーラス