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のパルメニデース及びヅェーノーンよりも一層物體的となれる證なりとし而して彼れが退步を咎む。然れどもパルメニデースの說は元來全く物體以上のものを謂へるにあらず。其の所謂有を以て純然たる形而上の觀念とせず物體の平等一如なる基本(即ち空間を塡充せる所)を指すものとせばメリッソスが明らかにそを空間的のものとし而して空間には際限を附し難ければそを無限の空間に充ち廣がれるものと考へ做したりしは決して全く無理なることにはあらず又强ち思想上の退步といふべきものにもあらず。若し有を以て際限あるものとせば其の以外に虛空なかるべからず、即ちピタゴラス派の學說にいふ如く世界を包圍する無際限の虛空ありとせざる可からず。(然れどもエレア學說に於いては虛空を非有と見たり。)斯くメリッソスは有を無限なりといひ而して又之れを基としてそを唯一のものなりといへり、そは無限者の二つあるべき理なければ也。又斯く無限の廣袤を塞充するものなれば虛空のあるべきやうなく、虛空なくば運動はた無かるべく、隨うて又有は集散離合すべきものにあらず、又厚薄を生ずべきものにもあらず。平等一如にして憂苦を感ずべきものにあらず。