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Page:Onishihakushizenshu03.djvu/168

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無差別なる幾多のアトムの集散離合するによりて如何にして色味寒熱等の性質上の(換言すれば感覺上の)差別を生ずる。こはアトムの形狀の差異と其の機械的運動とのみを以ては說明し得べくもあらず。こゝに於いてかデーモクリトスは(惟ふにプロータゴラスより得たる)主觀的說明を用ゐて色味寒熱等の性質は客觀に(即ち五官に對する物體それ自らに)存するにあらず、唯だ吾人各自が外物を感覺する上に存すといへり。然るに感覺するもの(主觀)を何ぞと問ふに、彼れの唯物說に從へば一種のアトム即ち物體に外ならず。最微圓滑なる火質のアトムこれ即ち感覺思慮の作用をなす靈魂なりといふ。然れども斯く內外(主觀、客觀)都べてのものを物質元子となし了はらば何故に色味寒熱等の性質なき物體(アトム)の相接觸するによりて色味寒熱等の感覺を生ずるかを解し得ざるべし。外界のアトムの機械的運動が靈魂のアトムの機械的運動を起こせば何故に色味寒熱等の感覺を生ずる。是れ凡べての唯物說に離れざる根本的難點にあらずや。エムペドクレース等の說く所に於いて旣に此の難を指摘し得ざるにはあらねど、デーモクリトスが主觀的說明を試みて而もそれが爲めに其の所說の純然たる唯物論となり