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アトム自らが運動を有すといふは如何なる意ぞ。アトムには若干の重量あればおのづから空間を落下すべく隨うて運動を生ずとの意か、はた重量によらずしてアトムそれ自身が自由に運動する動力を具ふとの意か。これに就きては史家の見るところ一ならず。フェラーは前說を取る、其の解に曰はく、アトムは其の重さの故を以て無始より無際限の空間を直下す。然るに其の重さの相異なるにより悉く同一の速力を以て降下せず、重きは速くして輕きに追ひつきこれと衝突す。此の衝突によりて直下運動の外に垂直よりれたる運動を生ず。かく外れて傍に走れるアトムは他のアトムと衝突し衝突に衝突を重ねて遂に渦旋をなすに至ると。

兎に角アトム論者はアトムを以てそれ自身に運動する性を有するもの即ち必然に動くものとなしたり。運動の必至なるをばデーモクリトスは運命(ἀνάγκη)と名づけたり。アナクサゴーラスは目的ありて働くヌウスを以て運動の原因と見做したりしが、アトム論者は運動の何の目的のために起これるかを說かず、唯だ之れを以て元子の本具せるもの、無始より必然にあるものと考へたり。