Page:Onishihakushizenshu03.djvu/155

提供:Wikisource
このページは校正済みです

あり。デーモクリトスの語に曰はく「有の在るは毫も非有の在るに優らず」と。斯く有と非有とを等しく在るものなりと云ひ得しはエレア學徒と共に非有を同一視せしによる。即ち在ることに於いては虛空は毫も充實に劣らずといふ意なり。この故に有は充實せるものなりといふ點は正さしくエレア學徒の思想と同一なれど非有なる空も共に等しく在りといふに於いてはエレア學說を離る。これ即ちエレア學說に從うて虛空の存在を承認せざるエムペドクレース及びアナクサゴーラスとアトム論者の相異なる所なり。而して實なるものは夥多ありて且つ動くと說くはエムペドクレース、アナクサゴーラス及びアトム論者の皆同じくエレア學說に違背せる所なり。さて其の夥多あるものの運動し得るはアトム論者に從へば虛空あるによる。アリストテレースに據ればデーモクリトスは虛空の存在する證據として、今いへるが如く物體の運動に虛空を要することを說き、又物の厚薄を生ずるにも生物の生長するにも虛空なかるべからずといひ、又水を充てたる器中に灰を投じて尙ほ其の水の溢れざるは是れ亦水中に虛空の存在すればなりといへり。此の虛空と共に在る(語を換ふれば虛空の中に在る)多く