Page:Onishihakushizenshu03.djvu/140

提供:Wikisource
このページは校正済みです

《ピタゴラス盟社の盛衰。》〔二〕第二章に陳ぜし如くピタゴラス盟社は一時南部伊太利に於いて政治界に一大勢力を振はむとせしが當時勃興せりし民主思想と衝突し紀元前四百四十年より四百三十年に至る頃には此の社に對する反對の氣焰最も熾にして遂にはクロトーンなる此の社の集會所を燒き拂ひ刃に釁るに至りしかば社友は其の難を遁れて多く地方に離散せり。遁れて希臘本部(ヘルラス)に至れる者の中にクロトーン人フィロラオス(Φιλόλαος)及びタラス人リュイーシス(Λῦσις )あり居をテーベーに占め共に當時の碩學を以て稱せられき。フィロラオスのテーベーに在りしはプラトーンに從へば第五世紀の末つ方也。惟ふに彼れはソークラテースよりも少しく年長なりしならむ。リュイーシスは名將エパミノンダスの師となりき。ピタゴラス盟社一旦クロトーン及び其の他の南部以太利の市府にて其の威勢を失ひし後復た一たびはレーギオンを以て其の中心として稍〻其の勢力を挽回したりしが、其處の圑體も後遂に離散するに至りぬ。當時尙ほ哲學者として又將軍として高名なりしタラス人アルキュイタス(Ἀρχύτας)のあるありしが彼れの死後は此の社の勢力頓に衰へたり。