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Page:Onishihakushizenshu03.djvu/104

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而して更に尙ほそれよりも小なる部分を考ふるを得べし。かくして一個の中には或分量を有する無數の部分の含まると見るを得べし。而して此の如く限りなき多くの部分を有するものを以て成れるは限りなく大なるものならざる可からず。之れを要するに雜多をなせる一個を以て各〻毫も分量なきものと見ばそは無限に小なるべく又多少の分量あるものと見ばそは無限に大ならざる可からず。故にといふは自家撞着の觀念なり。

(第二)雜多は量に於いて自家撞着の觀念なるのみならず其のの上より見るも亦しかり、そは限り有ると同時に限りなき者ならざる可からざれば也。何の故ぞ。曰はく、若し多なるものあらば、そはその實際あるより多くもなく又少なくもなく其の實にあるほどのものならざる可からず、即ち其の數に於いて定限あるもの也。然るに又二個のものの相分かれて實に二個のものたらむには其の間に之れを分別する第三者なかるべからず。而して又此の第三者が第三者たらむには之れを前二個のものと分別する第四の者又第五の者なかるべからず。斯くして限りなく多くの個々物あるを要す。すなはち雜多は其の數に於いて限りなかるべし。