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り始めた。門七はその傍に長く寢べり、雪󠄁子の手許を親しげに眺めてゐたが、やがて仰向き、明るい空󠄁が眩ゆママいのか靜かに眼をつぶつた。

 信吉はそつと其の場を離れた。程󠄁よい所󠄁へ來て立ち止つた時、彼は急󠄁に哭き出したい程󠄁の寂寞を覺えた。

「津木門七! 津木門七!」彼はさう小聲で呼んでみた。そして眤つと聽き耳を聳てた。雪󠄁子の譯の分󠄁らぬ叫び聲も、門七のそれらしい聲も聞えては來なかつた。


 それから屢々信吉は二人の此のやうな狀ママ景を垣間見ることがあつた。大抵午後の日盛りが多かつた。が偶には黃昏時の畑徑に、手を執つて步いてゐる姿を遠󠄁く望むこともあつた。そして、そのやうな時の門七は、言ひ知れぬ平󠄁安と滿足を、慥かに感じてゐたに相違󠄁ない。それは彼等二人だけが感受し得る、溫い、人生の深奥に潜んでゐる或る一面の、否最高の感情󠄁ではないだらうか。信吉はさう思ひ乍ら彼等の姿に見惚れることが度々あつた。

 しかし、信吉には、彼等二人の中に割つて這入り、自分も彼等同樣の愉快を味はうとする欲求を敢然と遂󠄂行することは、到頭たうとう最後まで果し得なかつた。信吉には彼等二人がたまらなく羨しいものに思へた。併しその反面門七を甘い感傷家として輕蔑しやうと試みた。がかさかさに乾き切つた彈力のない自己の心情󠄁を顧󠄁みたママ時、彼は、何んママでもいゝ眞劍に泣けたら、と泌々と思ふのだつた。

 九月も過󠄁ぎ十月に這入ると、急󠄁激に気溫が低下し、朝󠄁晚冷え々々とした寒󠄁氣さへ身に泌むやうになつた。遽てゝ袷が取り出され、冬︀襯衣が用意される。

 氣候の急󠄁變で、病室では死亡が激增した。一日に二つも三つもの葬式が行はれることも珍らママしくはなかつた、「逝󠄁去」を報せて鐘の音󠄁をきゝ乍ら、今のやうに病院生活を想ふこともあつた。

 そして、その月󠄁の末、或る霙まじりの雨の朝󠄁、第五病棟から擔ぎ出された擔架の上には急󠄁性肺炎でぽつくり生命を喪つた雪󠄁子の小さな屍體が戴せられてあつた。白い消󠄁毒衣は着てゐるが、これ も患者の附添夫に擔がれた擔架は、纔かの見送󠄁り人に戍られて、靜かに解剖室の方へ進󠄁んで行つた。その列の後から頸垂れて踉いてゆく門七の姿󠄁を、信吉は病棟の蔭から、凝つと見送󠄁つてゐた。



  雪󠄁子の葬儀には私も列席した。屍體解剖室に隣接した狭い安置所󠄁は、少女舎の子供達󠄁で一杯に埋め盡されてゐた。私は一番最後に、燒香すべく佛前󠄁に出た。そして香をあげ、靜かに冥默合掌した。「白痴の死」私の頭にはその事が鮮やかな色彩󠄁を帶びて泛びあがつて來た。私には雪󠄁子に親しく接する機會のなかつたことが熟々不幸なことに思はれた。そして此の泥沼のやうな、不健康な療院生活にあつて、彼女の死を、心から悲しめる、そして限りなく美しいものとして、哀惜するのだつた。