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 雪󠄁子の一七日ひとなぬかの供養が禮拜堂で營まれた翌󠄁日、門七は遺骨を携へて歸宿した。それから四月󠄁目私は門七からの手紙を受けとつた。


「六時頃家へ著いた。家といつても叔父󠄁の家である。母は俺を見て泣いて喜んだ。そして妹の死を知つて、又󠄂泣いた。由子は俺の顏を眤つと見てゐるだけで何とも言はない。叔父󠄁夫婦は一寸顏を出したきりで、すぐ見えなくなつた。

 俺は以前俺が居た二階の四疊半󠄁へ行つてみた。凡てが丸つきり變つてしまつてゐる。坐る場所が見當らなくて弱󠄁つた。母が蒼蠅󠄁いのですぐ寢た、眠れやしない。そして俺は熟々此處は俺の來る所󠄁ではないと思つた。俺には今迄居た療養所󠄁以外何處にも居る所󠄁はないのかと思ふと堪らなく慘めな氣持になつて了つた。君の事を思ひ出したので筆を採󠄁つたが、別に書くことも餘りない。

 なんだか變な手紙になつたが、讀み返すのも臆劫なのでこの儘出す。何もすることなんかないのだが、少しも落ちつけない。又󠄂會ふ迄、さやうなら。」

 私は、その文󠄁面から、彼の惠まれない家庭を色々に想像し、癩の家庭の例外なく陰慘なのに、運󠄁命的な呪詛をさへ感じた。

 門七が歸院した翌󠄁日、私は夕頃、彼を訪れた。彼は珍らママしく氣乘りを見せて、遂󠄂に消󠄁燈する迄語り合つた。そしてその晚彼が特に熱をもつて喋舌つた言葉の中で、次のやうな言葉を彼が自した――それは未遂󠄂に終󠄁つたのだが――後で私は强い印象を伴󠄁つて思ひ返󠄁された。

「俺には、何一つ信用出來る思想がないんだ、みんな出鱈󠄁目に見えるんだ。只俺に信ずることの出來るのは、自分の力だけなんだ。それも至極危いものだらうけれど、まだ望󠄁がある凡てのことを、只一つのことをやり遂󠄂げる可能性が、俺の中には藏されてゐると思ふ。それだけだ。俺の賴り得るのは。それを高める爲に、否自分に識らせしむる爲には、俺は俺の生命をも賭けて、少しも惜しいとは思はない。」

 そして、彼がこのやうなきつめた思想を抱󠄁くやうになつたのは、私には、雪󠄁子の死が原因してゐるやうに思はれた。門七は凡ての人間を否定した揚句、白痴の雪󠄁子に人間の最も純なる生を見出し、それを信じ、そして强く彼女を愛し、それに由つて彼は支󠄂へられてゐたのであらう。その支󠄂柱を失つた門七が當然の勢として、今度は、自己の力を恃みにし、その結果、彼は死を企てたのではないのだらうか。彼は自己の力を、どうしても實際に働かせて、それを識る迄は、安心出來難かつたのに相違󠄁ない。言ひ換へれば、彼は自分󠄁をにまでしやうと敢て冒險したのではあるまいか。がそれは、よく人の爲し得る所󠄁ではない。彼は失敗した。そして今の彼は、狂人病棟の一室に危險人物として監禁されてゐる。