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プとなつた事に由つて、一緊密になつた。

 その會は週󠄁一度會合があり、會員の作品を朗讀し、それを批判󠄃し合ふのが主なる目的󠄁だつた。新しい會員と云つても、その殆どは、院の機關紙上でその作品に接したことのある連󠄁中ばかりだつたので,嚴密に言へば門七だけが、他の人々に全󠄁く未知な新顏だつた。

 信吉は、或る日の會合で始ママめて門七の作品を聽かされとき、その作家的󠄁才能に尠からず驚嘆させられた。他の人々にとつて、實に陳腐なものに思はれ、埃にまみれて顧󠄁みられなかつたやうな院內の物象を捉へて、實に生々とした、鮮やかな筆致で描いてゆく門七の作品は、此の院內に長く生活し、物事に對する銳い感受性を喪はれ、灰󠄁色の單調な生活に全󠄁身を溺れ切つてゐる常連󠄁には、到底望むことの出來ない水々しい――そんな形容が許されるなら――ものに思はれた。信吉は、不知不識のうちに自分の眼が鈍くなり、經の麻󠄁痺と同樣、銳い感性の喪失感に、今乍ら驚らママかされるのだつた。

 それ迄に信吉は、幾つか誌上に發表もし、又󠄂會合で賞讃された作品を持つてゐた。そして心窃かに、他の連󠄁中の萎縮した、病い頭腦を輕蔑してゐたのである。

 其の後暫らママくして,會員全󠄁體のコント集が機關誌上に發表された時、自ら快心の作と恃んでゐた自作が、門七のに較ベ、酷󠄁く見劣りのしてゐることを、まざと見せつけられ失意落膽する前󠄁に、先づ門七の天分に、强い羨望の念を留め得なかつた。

 二人は殆ど每日のやうに顏を遭󠄁はせて、長いこと、色々と話し合ふのだつた。それは主に文󠄁學哲學に關する抽象的な論議が多かつたが偶には、泌々とした身の上話や過󠄁去の生活體驗などを語り合ふこともあつた。

 門七は話術󠄁に巧みだつた。信吉は二三ケ月のうちに、その境遇󠄁の全󠄁貌を割合明瞭りと識ることが出來た。

「俺が父󠄁を知らないといふことは、實に不幸だつたよ。」

 門七は、よくさう云つた。そしてその後で必ず、話は、彼の母の不甲斐なさに落ちていつた。

「母がもつと、確乎しつかりしてゐたら、俺も、こんな卑屈な、意氣地なしの人間にはならなかつたかもしれない。」

 さう言つて彼は狡󠄀さうに微笑することもあつた。

 門七には妹が二人あつた。そして父󠄁の死後十二の門七を頭に三人の兄妹は、母に連󠄁れられて、母方の叔父󠄁の家に寄寓し、彼は其處から小學校へ通󠄁ひ、中學へ通󠄁つたのである。二つ下の妹は尋󠄁常を卒ると、すぐ或る會へ働きに遣󠄁られた。

「女はあれでいゝ。お前󠄁は男なんだから、確かり勉强して、出世して吳れなくては困る。」