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 私は、その人々に耐らなく嫌惡を感じ、その場の雰圍氣に居堪らママなくなつた。私一人が何故か、飛び離れた、別個な存在であるかのやうな强い寂寥感に襲󠄂はれ、窖へでも陷ち込むやうな不氣味な戰慄と恐怖心とを拂ひ除けることが出來なくなつたのである。

 私は、とある木蔭に身を避󠄁けた。私の前󠄁を五つ六つ、黑い人影が通󠄁り過󠄁ぎた。

(門七は、きつと狂人病棟へ連󠄁れてゆかれただらう。そして、あの陰鬱な、じめとした監禁室へ抛り込󠄁まれるのだらう。門七は、死に損つた門七は、其處で一體何を識󠄂るだらうか。)

 私は、そんな事を次々にと考へてゐた。人々の列は途󠄁絕えた。地の底からいて來るやうな、跫音󠄁だけが何時迄も聞えてゐた。

 私は、門七に關する次のやうな未定稿を持つてゐる。



 それは九月になつたばかりの、或る蒸しい日の午後だつた。三時近󠄁くなつて、信吉は午睡の夢から醒めた。夢といつても至極曖昧な、眠る前󠄁に頭にあつた事が、その儘夢に續いたり、少しは眠つたのではあらうが、醒めても、まだ夢の續きを見てゐるやうな氣がして、變に頭が重かつた。

 信吉は、强い陽を避󠄁ける爲に手拭で頰被りをして、ぶらりと表へ出た。眩暈めくるめくやうな陽光が、かさに乾ききつた庭土の上にはねつ返り、燃えるやうな火氣が、むつと肌に感じられた。

 信吉は凉を追󠄁うて、垣添ひの小徑に出た。其處は櫟や楢の木蔭こきになるので幾分凉しかつた。時折、生ぬるい風が頰に觸れて通り󠄁過󠄁ぎた。信吉は何處か恰好の草叢はないかと尋󠄁ね步いた。と暫らママくして、行手の木蔭から男の低い唄聲が漏れてくるのに氣付いて、立ち佇つた。彼はその儘で凝つと、その聲に耳をてゝゐたが、急󠄁に唄ひ手に興味を覺え、聞えてくる方へ徐々のろと步きだした。

 大抵、男の唄ふ歌は卑俗た流行歌か、端唄に限られてゐるのに、珍らしく、その唄つてゐるのは、彼も薄々覺えてゐる小學校唱歌の一つだつた。低い聲でゆつくり唄つてゐる歌を聞いてゐるうちに、信吉は或る泌々とした懷しさを感じてきた。彼がその木蔭の後に步み寄つた時、唄聲は歇んだ。

 彼は首を伸ばして、人の姿を求めた。

 太い二三本の松と櫟の葉で陽蔭になつた草の上に腰を下してゐるのは津木門七だつた。次いでその傍に、妹の雪󠄁子を認めた時、信吉は門七を見出した時、最初感じた奇異の念は霧散して、それに替つて和やかな情󠄁愛を意識し、羨望の想ひさへ加つて、信吉を强く牽きつけた。

 彼は門七の妹である雪󠄁子が、白痴であることを疾うから聞き識󠄂つてゐた。そして彼女を門七は大變可愛がり、その小さな掌を執つて每日のやうに散步に出懸ける。それも餘り人眼につかない場所󠄁を撰んで連󠄁れ步く。