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女達は信作の気味悪く坐った眼先に辟易してか余り傍へは寄りつかない。そのうちに服部は十八番の蛮声を張りあげて「愛国行進曲」をうたい出した。女達もそれに和した。種々雑多な声が壁や天井にぶっつかりそれが一つの騒音となって四方からかぶさってくる。中でも服部の声はがんがん耳朶に響き、信作を圧倒した。

 信作は音痴だった。声を張れば調子外れになり、細いのでまるで泣いているようにきこえた。歌は好きなのでよく覚えた。それでも時折低唱する位で、人前では決して歌ったことがない。独りでうたっているところを人にきかれた場合など、女のように赤くなり、その憶病さに腹も立ったが、又情なくなった。

 が、服部の無邪気な唄声をきいているうちに、信作は無性にうたいたくなった。負けずに奴鳴り返してみたい、そんな反撥心も手伝っていた。而しまだ羞恥の念が根強く残っていた。信作は無闇と杯を重ねた。それにも拘らず、彼の頭は益々澄み徹り、コップや皿を振りまわしながら大口を開いてうたっている服部や女の姿が鮮明な陰影をともなって彼の眼底に烙きついてきた。到底自分にはあのようにはなれない。そう思うと信作は例えようもなく寂しくなっていた。どうしても酔痴れることの出来ぬ自分が呪わしくさえなった。哭き出したい衝動に馳られた。――しかしその衝動と共に、何物へとも分らぬ狂おしい反抗心が、鉛のように彼の心にしこってくるのを感じた。それは内部から彼をゆさぶり、もどかしさに、四肢をわなわなさせた。何かが吐けロを求めて体内を馳け巡っている。狂いまわっている……。

 信作はふと、卓子の端近く転んでいるウイスキーの瓶に、人の顔の映っているのを見止めた。それは極めて小さく、その上いびつに膨れあがっていたが、しかし明瞭りと彫り込まれていた。彼は眤っとその顔に見入った。そして、それが自分の顔であることを識ると、堪らない憎悪に、卒然立ちあがった。

 歌は「日の丸行進曲」に変っていた。女達はいつのまにか一人になり、頰紅と唇紅とを憎々しいほど濃く塗ったその年増女は、これも大分怪しくなった姿態で盛に手を振ってはうたっている。全然調和しない二人の声は妙に甲高い。信作は鳥渡躇らったが、思いきってうたに這入った。女は怪訝そうに信作の顔をみたが、すぐもとにかえり、しどろもどになった服部の酔態に笑いこけた。

 始めのうちは自分の声が、あまりに明瞭りきこえ、それが気後れとなった。が三節目頃から信作の声は段々高くなり、それと共に泣くような金切声になっていった。彼の声は決して聞く者に快い印象を与えるものではなかった。不自然に高かったり低かったりする調子外れの顫え声は、恰で自棄になって奴鳴りつけている神経質な女のようで、鋭く坐った眼と、青筋の浮いた額や顳顬の辺には怒気が漲り、引釣るように細く動く唇は蛭を思わせて不気味だった。

 信作は片手に杯を持ち、それをコツコツと軽く卓子に打ちつけながらうたっているうちに、いつしか四囲に対する危惧不安の念は流れ去り、浩然となることが出来た。彼はうたっている自分自身の姿すら思い浮べなかった。うたってやろうという心の緊張は、うたえたという充足になり、それもやがて淡れ、信作は只うたっているという快い安定と忘我の中に溺れていった。

 信作の瞼は軽く閉じられていた。詞はなんの意味もなく唇から流れ出る。それが快い顫律となって耳朶に響いてくる。――その循環する輪の流れの中で、信作の意識はバラバラに分散し、透明になり、そして膨れあがっていった。

 服部はうたに疲れ、ぐったり腰をおろした。そして信作を眺めた。肴核の既に尽きた狼藉たる卓上に、両手をしっかと構え眼をとじ、やや仰向いた信作の表情は不気味にも俊厳なものだった。が服部の酔眼はそれへの凝視に耐えず、ごろりと椅子の上に横たわるなり、忽ち睡魔に囚えられ、グウグウと鼾を立てはじめた。

 其の時、傍の卓子にどっと挙った喊声に、信作はぴたっとうたいやめた。そしてきょろきょろあたりを見まわした。その眼には何か重大な過失を犯した者のような濃い畏怖と絶望の色が宿っていた。そして危うく