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避ける幾人もの視線に突きあたると脅えたように腰を落し、周章てて帽子をかぶろうとしたが、帽子はその置いた所とは位置を変えていたので、なかなか見当らず、まごまごして、やっと探し出すと、今度は、女が持って来ておいた卓上のコップを取りあげ、透明な液体を息もつかず飲み乾した。一杯の水は彼を落ちつかせた。彼はゆっくり立ちあがり、服部に近づき、その肩をゆすった。

 服部は、悉皆参っていた。抱きかかえるようにして表に出たが、その腕の中で、又眠り痴けてしまう有様だった。

 思う存分好きな酒を飲み、いい気持になれば騒ぎたいだけ騒ぎ、そして、安心して眠ってしまう服部が、信作には羡ましくも又いまいましかった。やっと空車を拾い、階下の内儀さんにまで手伝わせて、二階につれ上げ、布団を引きずり出し、その中に服のまま転げ込んだ。服部は唇から涎れをたらしたなり、何か二言三言ぶつぶつ呟いたが、そのままいぎたなく眠ってしまった。

「どうもお騒せして……。」

「ほんとに、御苦労さんでした。」

 表に出ると、緊張したせいか、酔は薄ぎ、ただ頭のどこかがきりきり疼いていた。夜更の裏街は閑静そのままに、ひっそりしている。所々に点々と灯る暗い外燈の陰を、信作はポケットに両手をつっこみ、頸を垂れて歩いた。彼は時々思い出したように四囲を見た。産婆の広告燈が、眼に泌む赤さで、ポツンと宙に浮いている。仕舞い遅れた薬舗の電燈が白い帯のように通りに流れ出している。小さな物音が、いくつも寄り合って深い静寂を醸し出していた。建付けの悪い雨戸を洩れる黄色い光は徒らにもの佗しい。

 げき寂とした駅の構内に、轟音と共に走り込んで来た電車のヘッド・ライトは、爛々たる光鉾の中に、一瞬信作の姿を白金の明るさに照り出して通り過ぎた――。

 その晚、信作は家に帰らず、淫売宿で一夜を明した。堅い女の皮膚に、悔恨と寂寥を嚙みしめながら。


 翌る朝は、小雨が降っていた。濡れた舖道を信作は傘もなく、帰った。幹子は不安と、それの杞憂であることへの期待に、身を硬くさせて、彼を迎えた。

「昨晩は、どうなさいました……。」

「服部の家。」と咄嗟に嘘が浮んだが、急に強く思いかえし、

「淫売宿で宿ったよ。」

 そう言い放つと、何かさっぱりした気持になったが、

「嘘! ね、何処? 服部さんの所?」

「くどいな。夕は気がくさくさしたんで、淫売を買ってみたんだ。莫迦しい。」

 事実信作は、莫迦しかったし、またそんな所へ吐け口を持っていったことが、忌々しくもあった。

「頭が痛むんだ、布団を出してくれ。」

 幹子は少焉、疑念と畏怖のからみあった混惑のまま、彼を見戍っていたが、やがて信作の言葉が事実となって彼女の胸に喰い込んでゆくや、その恐ろしさに耐えられなくなり、布団を引き出し、服を脱ぎにかかっている信作の腕に、我武者羅にしがみついていった。信作はその手を強く払いのけた。が幹子は蹣跚きながら、又かじりついた。そして牛のように彼の胸に頭を押しつけて、哭いた。

「あなたは……。あなたは……」

 その姿体に信作は、強い憎悪と汚穢なものを感じ、荒々しく突きのけ、襯衣のまま布団にもぐり込んだ。ぺたんと俯伏したまま嘘唏いている幹子の声が、刺すように耳殻をうつ。信作はぐっと眼を閉じた。どきど