Page:OizumiNobuo-Hi Kageru-2002-Kōsei-sha.djvu/4

提供:Wikisource
このページは検証済みです

でもある。――此の理由を楯にとって幹子は決して許さなかった。病院を出る時二人はその事に就いて堅く誓った。若し不安だったなら、病院で断種の手術を受ければよかったのである。信作は大丈夫だと幹子に言い又手術を受けることを畏れてもいた。幹子は彼に手術を望んでいるらしかったが、強くはいわなかった――。

 調節器の使用は、信作も覚悟していたし、諦めてもいた。しかし、そうまでして続けている自分達の行為は、徹頭徹尾本能の満足にのみ終始している、頗るエゴイスチックなものになり、その醜褻さを思うことによって何時しか幹子との同衾にある憎悪を感じ、行為の最中にさえ動物的な欲望を制し切れぬ淫蕩な自分を、意識するようになっていた。

「あなたは、恐ろしい方だ!」

 長い無言の争闘の後、激しい恐怖と、強い衝撃に身を顫わせながら、瞭きり言った幹子の言葉は、信作を遣り場のない慚愧と焦躁に追い込んだ。

 翌日、信作は工場で一日中精密器械の製作に没頭した。根をつめた割に仕事ははかどらなかった。へとに疲れて工場を出た信作の頭は変に毒々しく冴え返っていた。

 帰途、信作は電話で服部を呼び出した。彼が下宿している八百屋の内儀さんは、すぐ服部を受話器の向うに立たせてくれた。

「おい、今晚暇か。」

「うん、今さっき帰って来たばかりなんだが、今夜はどうしようかと思案していたところさ。懐は寒いし、夜は長いってね。」

 服部は電話の中で笑った。その明るい声をきくと、信作は電話を掛けてよかったと思った。

「そりゃいい、どうだ一杯やりに行こう。以前お前に連れていって貰ったあそこがいいだろう。」

「へえ、こりゃ珍しい。で、又どうして、何かいい話でもあるのか。」

「よせやい。北原の供養か。」

 信作にも、そんな冗談が出た。

「じゃ、七時頃までにな。」

「よしきた。」

 ガチリと受話器を降し、服部との連絡が完全に断たれてしまうと、信作は何かある不安に突きあたった。服部と一緒に騒ぐことに淡い逡巡と後悔の念が胸を嚙んだ。信作は頸を振り、扉を排して舗道に立った。

 爪先を見つめたまま、信作はすたすた歩いた。


 紅や青のシエドを洩れる光線の交錯した黝い壁に、浮びあがっているくすんだ時計が八時をうつ頃には、もう服部は大分酩酊していた。熟柿のようにてかてかひかる顔を輝やかせて、のべつまくしたてているその唇端からは、だらしなく涎がながれ落ちていた。時々それを無造作に手の甲でこすりこすり服部はさかんに杯を傾け、気焰をあげた。

 まだ刻限が早いのか室内は割に閑散だった。彼等の陣取っている後の卓子には、会社人らしい三人連が、何か小声で話しながら飲んでいた。その外常連らしい酔漢が、窓際で女給と巫山戯ている。レコードが退屈そうに唸っている。

 服部の悪気のない一人機嫌に、女達もつりこまれてはしゃぎ立っていた。信作も何時になく酒量を過した。その上服部に無理矢理勧められた一杯のウィスキーが大分応えていた。が信作は酔えば青くなる性だった。