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漠とした不安と畏怖の念が伴い、躊躇された。

 北原が腸結核で入室する直前に、信作は彼からの手紙を受け取った。

「近く面会に来てくれるとのこと、嬉しくお待ちしている。自分は今下痢で臥床しているが、頭の働きは却つて冴えているようだ。

 僕は君にききたいのだが、君は生きてゆくことに就いて、最も重要なもの、それなしでは、生が全然無意味なものになってしまう、そういうものを忘れてはいないだろうか。僕は最近そのことばかり考えているのだ。それは固定した概念ではない。生と共に発展し、――いやそれ自身が生であるとも考えられるものなんだ。それは個人個人によって、まちまちな様相を帯びて現われる。がその根本は一つのものだ。僕はそれを生命の意志と称んでいる。

 若し、多忙と怠惰の為、生活の表面を上滑りしているようなことがあったら、君の為に実に遺憾である。 ――」

 それには前述の意味の如き事が書かれてあった。信作は北原を羨ましく、又妬ましくさえ感じた。幹子はそれを読み、

「私達も確かりしなくては駄目ね。」

 と、表面信作と一致したが、信作には、却ってそれがたまらなかった。

 北原の死は、信作に、北原への挽歌をうたう前に、彼自身の生活に対する反省と批判とを示唆した。それは信作にとって怖ろしいことだった。彼は激しい焦燥に、そっと窓外に眼を転じた。悉皆暮れ切った武蔵野の林を出て、電車は耕地らしい平原を駛っていた。

 信作の帰宅したのは、八時近くなっていた。膳を造って待っていた幹子は、玄関に彼の跫音をききつけると、急いで出迎えた。

「夕飯は食ってきた。」

 そう言い捨てると、信作は和服に替え、読みたくもない夕刊をとりあげた。幹子は素直に独り膳についたが、執拗にあれこれと、病院での容ママ子を問い糺すのに、信作は、

「黙って食えッ。」

 と奴鳴りつけた。呆気に取られた幹子は暫らく信作の顔を見戍っていたが、やがて俯向いて食べはじめた。信作は新聞を放り出し、戸外へ出たが、別に行く所とてなかった。近くの通りは縁日でもあるらしく、潮騒のような雑沓が、明るく渦巻きあがっている。腹をたてて飛び出したことが莫迦しくなった。幹子は勝手許にいた。なにもすることがない。なにをするのもいやだった。坐布団の上に長々と寝そべり、耳だけを聳てた。

「あら。もう帰って来ましたの。」

 幹子はエプロンの端で手を拭き拭き這入って来た。信作は幹子が傍に坐るのを待って、急に起き直り、荒々しくその頰に接吻した。

 幹子は、その行為に依って、燻った感情の蟠りが、きれいに洗いながされたかのように、朗らかな微笑をうかべた。而し、それは彼女が真裸になって彼の愛撫を受け入れる素朴な情熱ではなく、或る限度を堅く保っている、安易な、その意味で狡いものであることに信作は激しい嫌悪を感じていた。

 その晩、信作は幹子に今までにない激しさで、夫婦間の直接交渉を要求した。が、幹子の必死の抵抗に遭い、遂に断念した――幹子は妊娠を極度に警戒していた。分娩時の血の亢ぶりは病勢の急激な悪化に、決定的な影響を及ぼすからである。又産れる嬰児の将来を考える時、調節器の使用は彼等にとって道徳的な義務