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「前科者同志の道行だね。」

 小声で囁く服部の諧謔にも、ただ歪んだ微笑を見せるだけだった――。

 信作は、服部や北原と同じ療舎に三年の病院生活を送った。口数の少い、どちらかと言えば内省的な、北国人特有の一徹な性格をもった信作には、北原に代るべき友は一人もいなかった。服部の明るい屈託なさを二人は愛し、三人は部屋の者とは違った空気を持っていた。服部は信作より半年程早く退院していった。それからは二人してその空気を戍り通した。

 信作は社会での生活に自信を持つことが出来なかった。ましてその寂寞とした不安にはとても耐えられぬと思った。が、幹子ができてから、二人での生活を社会の中に移し植えることにある希望がかけられ、それに病院での夫婦生活の不自由さも手伝い、二人は相前後して軽快退院したのである。間もなく東京の場末に二人は同棲するようになり、信作は服部の斡旋で或る器械製作場に勤めることが出来た。

 信作は一月か二月には必ず一度北原を尋ねた。千人以上も収容している病院の中に、一人の友もなく、只文学に専念している北原が真実気の毒であった。北原と語ることに由って信作の心も慰められた。幹子もそれを喜び、その都度、信作に手土産を持たせることを忘れなかった。その上幹子の友人に対しても一人一人言告けを頼み、それらの人々との交遊をいろいろと計った。幹子も屢々文通し、又彼女自身年に一度か二度出向いていったりした。時折一時帰省を得て出京する北原やその他の友人に対しても、幹子はあらゆる款待を惜しまなかった。

「私達も結局は、あの療養所に帰ってゆくんでしょう。左うすれば又あの人達にもお世話にならなければならないし、今のうちに出来るだけのことをしてあげるのが……。」

 幹子の気持は信作にも痛い程分っていた。そして今迄信作は努めてその幹子の心に沿うて生活をたててきたのである。

 不自由を忍んでの二階借りから今の借家住いに移り、家具や調度品も大分整備し、時々出て来る病友にも羞しくないもてなしができ、病院訪問の外にも、二人で一寸した散策に出られるという余裕もあった。それら生活の外延的方面に就いての計画は一切幹子が樹て、著々実行してゆく手腕には、信作も秘かに感心していた。

 家人に虚言を吐き、信作を追って退院した幹子は全く文字通り彼一人が頼りだった。信作はそういう幹子の心根が可憐でもあり、又彼女の暖かい性格に惹かされて、比較的平穏に暮すことが出来た。

 二坪か三坪に足らぬ狭い庭に池を造り、金魚や目高を放ち、花卉をあしらいなどして、夕饗の後、幹子と、縁に団扇に涼をとりながら、漫然と語り合う時など、信作は泌々とこれでいいのだと思うことが出来た。幹子の懐で眼を瞑ってさえ居れば、二人は幸福になれるのだ。そう思い幹子を愛撫した。

 而し、北原との交遊は、何時までも信作にそのような惰眠を許さなかった。北原を病院に訪い、病者の生活を眼のあたり直視した時、その熾烈な苦悩の焰は彼に反映し彼の心をゆさぶり、彼自身の生活に対する鋭い批判力をかきたてるのだった。

 療養所を終局の場所として、その上に建てられた社会での生活――確かにその生活は幹子の言う通り最も安全な方法であろう。萍のように、いつどうなるとも測り知れぬ病軀をもっている以上、根はやはり療養所におろすのが賢明である。しかし、それならば現在こうして営んでいる幹子との生活には、一体何んママの価値があるのだろうか――若し幹子の意見に従いそれを分析してみるならば、信作はそこからは、享楽虚栄、本能の満足、自己偽瞞等、あらゆる人間のもつ醜いもの以外には、何も見出すことが出来なかった。

 それなればどうすればいいのか――それは信作にもよくは分らなかったし、又強いて追求してゆくことに、