らざれども、クリル人と近く交を結びしより風俗言語を更め、固有の名を失ひ、顏色容貌に至る迄クリル人に化すに至れり、是等の土人はカムチヤダールと同一にして屢々小船に乘りて同種のカムチヤツダールを侵掠し彼等を震慄せしめたることあり、然るに哈薩克の東察加に來住せし以來、クリル人の外侵を抑制し、カムチヤダールは哈克薩と共にクリル人を襲ひ南進し他の島に迄到りし事あり、當時クリル人は徃々遁れて山に入り、又はシユムシユ島の山谷にも多く遁入たり、この土人は元來其數多からざりしが、一七六八年に東察加より疱瘡流行し來りて更に人口を减じたりと云ふ、以上に據て見れば千島の最北端にはカムチヤダールに類似せる土人の棲息すを知る
パラムジル島に住める民は純粹のクリル人、即ち
以下彼等の衣、食、住、宗教、器具、口碑等を精密に記載し、遂に編年史に移れり、
この書の記す所に因て見れば、露人の最初千島に到りし際には二種の土人棲息せしものゝ如し、一は則ち稍やカムチヤダールに類する者、一は我北海道、唐太のアイヌ種族に類する民族なり、現今の千島土人はこの二種族の雜合せるもの乎、將たこの二種の中一種の存在するもの乎、大に注意すべきことなりとす、
同書中、土俗を記する條、人類學上參考とすべきもの多けれども、就中左の數件は最も注意を要す、其記載に曰く「其矢は葭を以て篦とし、石又は骨を以て鏃とせるものなりーー兵器は元來石、又は骨類を用ひて造れる者のみなりしが、後來漸く變じて鐵となしたり、弓矢も其隣人と相戰ふことの止みたるより殆ど不用に歸し、海獸海鳥を射るにも今は多く銃を用ゆることゝなれり」
尙ほ第二卷は千島各嶼の地理物產のこと[1]を說けり、其中に左の件々あり、クトイ島、一ゴロウイン氏の記に曰、「上陸せし際島中粘土あり、穴中に靑色の粘土あるを見る、人の發掘せし跡なるべし」
「シムシル島、ーチリボイ島の方へ差出たる岬上にア子[2]イウシ山あり北緯四六度五〇分東徑二〇八度四分烟焰常に斷へず此山に一種の石あり、土人は鐵に代て鏃とす、」
その二條は前の石器と共に深く味ふべきものとす、ケトイ島の粘土は是れ或は千島より出づる土器製作の原料にあらざる乎、シムシルの石は黑曜石なること明かなり、
以上は唯だ千島誌中記する所の一二を略記せしのみ、要するに本書は最も有益なるものにして千島の人類學的研究をなすものは是非とも熟讀すべきものとす、