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Page:NDL992519 千島アイヌ part1.pdf/32

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  (一七)榎本子爵千島疆界考 東京地學協會第十四、十五兩年報吿中にあり、ポロンスキー氏クリル諸︀島誌の續編として出されたる者︀にして、書中の記󠄂事は主として日露交󠄁涉政治史󠄁なりとす、其書中の材料は主として本邦の記󠄂錄より取りたるものなり、千島の沿革史󠄁殊に千島に於ける日露交󠄁渉史󠄁を知らんとせば、この書は最も必要なるものとす、

  (一八)チヤムバレン氏文󠄁科大學紀要第一册第一號

この書の千島に關し必要なる點は本文󠄁にあらずして反て附錄の部にあり、氏は蝦夷島アイヌに關する諸︀書の目錄を揭げ其出版年月、記󠄂事槪要を併せ記󠄂されたり、(一三七—一七四頁)德川時代の千島に於ける本邦人の仕事を見るには此書は最も便利なるものなり、

  (一九)水科七三郞氏色丹󠄁アイヌの單語表

氣象集誌第十一年第九號にあり、氏は明治二十四年和田雄治氏と共に北海道巡回の傍、色丹󠄁島に立寄られたる際、同戶長和田良成氏より色丹󠄁土人の氣象に關する單語を多く聞き取りて書き集められ一覽表とせられたるなり、千島土人の言語を硏究するには參考とすべきものなり、

  (二〇)得撫外二郡巡視復命書

この復命書は明治十一年八月開拓使官吏井深基氏が手になりしものなり、この報吿は明治九年長谷部氏等の千島巡航槪記(一四)に次で參考とすべきものとす、

井深氏が玄武丸にて占守島モヨロツプ灣に到られしが、茲には最早一人の住民なかりき、されば當時は巳に露人等は本國に歸りたるものなり、而して當時千島土人は同島のベツトボに棲息し、其時同地にありたるものは男女合して二十二人なりさ、

ミルン氏が占守島のベツトボを訪ひしは又明治十一年にて、其人口も同じく二十二人なりき、玄武丸は占守島を去て新知、得撫兩島を訪ふ、こはこの二島に住するアリウートを訪はんが爲めなり、一行は上陸せしも已に人影なく、只だ彼等の穴居跡を存ずるのみ、

以上に因て見れば明治十一年には新知、得撫兩島に住するアリユウト種族は、其前年にこの地を去りしものと考へらる、

この復命書は、文󠄁簡單なりと雖ども大に參考とするに足る

以上余が今日までに讀みたるものなり、尙ほ郡司、笹森、多羅尾諸︀氏の近時出版の千島に關する書も參照す可し、千島に關する德川時代の書籍のことは別に記載せんとす、