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Page:NDL992519 千島アイヌ part1.pdf/30

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しことを聞きぬ、この傳說は引用せられて小金井教授色丹土人傳說(アイヌ論文第二卷二九九頁)にありこの報告はこれまで本邦人に多く參考として用ひられたるものにして、かの海軍省の千島航路誌、郡司、笹森兩氏の探撿誌にも出されたり、而してこの報告は明治九年の紀行なれば、ミルン氏、スノフ氏の文と互に對照すべきものなりとす、

 (一五)千島群島地略誌

この書は明治十九年廣田舊根室支廳長が色丹土人、ヤーコフストローゾツブ、クプリアンストローゾツプの兩人を支廳議事堂に召し、千島諸島の事を聞き取りたる記錄なり、本書は又人類學上の參考とすべきものなりとす、兩人の語る所によれば、色丹移住前彼等の千島に於ける本居と定めたるはシムシユにして、時々水陸の鳥獸を逐て縱橫群島內を獵涉せしが故に、群島中漁獵の要所には假屋を構へたり、今其語る所の著明なるを記せは左の如し、

ポロモジリ島、二十年前にはハカバリウに九戶、ペードフに四戶の土人舍ありたり、

オン子[1]コタン島、テシコタマイに土人舎四戶、アシリメンダリに土人舍若干あり、

シヤシコタン島、モイスートには土人舍七戶あり、

ラサワ島ヲレシチプイに九戶の土人あり、會長ヤーコフの本陣は茲なりき、

ウシヽル島、土人出獵小舍五戸ありき、

千島土人は由來水草を追ひ、鳥獸を獵涉し一定の永住を好まざる種族なり、彼等の遺跡が千島各嶼に存在する又宜なるかな、

 (一六)ポロンスキー氏千島誌

この書(一八七一年出版)は榎本子爵が露京滯在中これを飜譯し、傍らクルゼンステルン、ゴロウニン等の著書を參照したるものにして、苟くも千島のことを云はんとするものは、本書を一讀せざる可からす、されど本書は版本として世に存在せず、余は大學より公の手續を經て外務省より借用し、榎本子爵の同省へ納めたる原書を讀みたり、本書は寫本都合四册あり、人類學上最も必要なるは第一、第二の兩册なりとす、第一册は最初に千島の地理、物產を記し、人種、風俗、宗教等に移り、これより露西亞人の千島に關係する歷史を記し始む、第二册は前册に續きたる歷史を記す、第三册以下は又第二册に續きたるものなれども其記載はウルツブ以南我北海道、との政治的交渉史なるを以て餘り人類學上の參考となるものにあらず、

同書に記する所によれば、哈薩克の始めて東察加に到りし時、土人より聞くに千島土人を遠近の二つに分てり、其近をウイウトヱスク、其遠きをアウンクルと云ふ、前者はシユムシユ、ポロモジリの兩島及び東察加半島の南部に在る土人を云ひ、後者は其以北にある土人を云ふ、

東察加半島、パルシヨイ及アワチ河以南、シユムシユ島に居住せるクルリ人は固よりクリル人種にあ

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