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を以て賊子と稱して攻擊す、斯くして國民の口を鉗するは容易ならん、不忠と呼ばるゝは日本人には最も苦痛なればなり、されど其心を奪ふは不可能なり、之れ其一例を擧げたるのみ、其他すべての點に於て同理なり、我國に於けるあらゆる事情を歎美し、誇張し、何事に關しても世界無比、宇內に卓然として類を絕するものと說くは、一片の儀式的祝嘉詞として述ぶるは可し、國民をして衷心より我國體の優秀なるを了解せしめんとするには何等益なき事にして、もし外國人より冷靜に之を見るに於ては妄想誇大狂ならんのみ、要は信じ得る所由を根據として說かざる可らず。

抑も國體とは如何なる意味なりや、予は「一國が國家として存立する狀態なり」と云はんと欲す、廣義に失するが如きも、斯く云はざれば國體なる語の內包を云ひ盡さゞるものと信ず。

從來云ふ所の最狹義の統治權の主體如何といふ如き事は素より、或は建國の事情に依りて定まると云ひ、其他何と云ひ彼といふ如きは、何れも內容の一部のみ、或は今嚴存する我國體(予の所謂)の優秀の原由の一部のみ。

然らば我が所謂「國體」の優秀とは何ぞや、曰く、上下融然として相和し渾然として一體を成し、而も整然たる秩序あり、國家として最も鞏固に存續する狀態なり、頗る簡單明瞭なり、而して我國(暫く新附の領土は除く)は世界の中、此點に於て第一位に居る事を斷言するは敢て不稽にあらざるべし、只此優秀なる國體の成立せる所の由來を硏究するもの卽ち吾人の目的なり、從來の學者其由て來る所を目して國體其ものとせると予の見解との異なる所以なり。

一言にして云へば多くの學者が認むる如く、我國の社會の成り立ちに因由す、即ち、上に、國民歸向の中心として有史以前より連綿として今日に繼續せる皇室あり、下、之が支流たる國民之を奉戴して、以て有史以來上下其序を替へずして、今日に及び又幸にして外の侮を受くる事なくして國家常に發展の一方に進める事なり、約言すれば一の中心點に向て國民が蝟集して堅固なる國家を作れるなり。

或種の社會主義者の云ふ如く、國に上下の差別なく、擧國平等にして一の命令なく、一の服從なく、又國際間に爭議なく、相互和衷協同して悠々春日の如き世界を作るといふ事が理論としては云ふに易く、聞くに快き說なりと雖も到底實現す可らざる空想に過ぎずとすれば、吾人は何所までも國を鞏固にし、國內に於て、主權に對する絕對的服從義務の內に正當なる自由の權利を保持し、國家に對する自己犧牲