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Page:Kokubun taikan 09 part2.djvu/289

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ものなり。

仁和寺にある法師、年よるまで石淸水ををがまざりければ、心うくおぼえて、ある時思ひたちて、たゞ一人かちよりまうでけり。極樂寺高良などを拜みて、かばかりと心得てかへりにけり。さて傍の人に逢ひて、「年ごろ思ひつる事はたし侍りぬ。聞きしにもすぎてたふとくこそおはしけれ。そも參りたる人ごとに山へのぼりしは、何事かありけむ、ゆかしかりしかど、神へまゐるこそほいなれと思ひて、山までは見ず」とぞいひける。すこしの事にも、先達はあらまほしきことなり。

これも仁和寺のほふ師、童の法師にならむとするなごりとて、おのおのあそぶことありけるに醉ひて興に入るあまり、かたはらなるあしがなへをとりて頭にかづきたれば、つまるやうにするを、鼻をおしひらめて、顏をさし入れて舞ひ出でたるに、滿座興に入ることかぎりなし。しばしかなでゝ後ぬかむとするに、おほかたぬかれず。酒宴ことさめて、いかゞはせむとまどひけり。とかくすれば、首のまはりかけて血たり、たゞはれに腫れみちて、息もつまりければ、うちわらむとすれど、たやすくわれず。響きて堪へがたかりければ、かなはですべきやうなくて、三足なる角の上に帷子をうちかけて、手をひき杖をつかせて、京なる醫師のがりゐて行きける。道すがら、人のあやしみ見ることかぎりなし。醫師のもとにさし入りて、むかひ居たりけむありさま、さこそことやうなりけめ。ものをいふも、くゞもり聲に響きて聞えず。「かゝることは文にも見えず、傳へたる敎もなし」といへば、また仁和寺へかへりて、親し