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Page:Kokubun taikan 09 part1.djvu/95

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を、又今日や今日やと思ふに、音なくて四月になりぬ。も〈もイ無〉いと近き所なるを、みかどにて車立てり。「內やおはしまさむずらむ」などやすくもあらずいふ人さへあるぞいと苦しき。ありしよりも、まして心を切りくだき〈くカ〉心ちす。返り事をもなほせよなほせよといひし人さへ憂くつらし。ついたちの日、幼き人を呼びて、長きしやうじをなむ始むる。諸共にせよとありとて始めつ。我はた始めつ〈六字衍歟〉。我はた始よりも、ことごとしうはあらず、たゞかはらけにかううちもりて、脇息の上に置きて、やがておしかゝりて、佛を念じ奉る。その心ばへ、「唯きはめてさいはひなかりける身なり。年頃をだに、世に心ゆるびなく、うしと思ひつるを、ましてかくあさましくなりぬ。とく死なさ〈如元〉せ給ひて菩提かなへ給へ」とこそ。行ふまゝに、淚ぞほろほろとこぼるゝ。あはれ、今樣は女も珠數引きさげ、經引きさげぬなしと聞きし時、まさり顏なさる〈如元〉ものぞやもめには成るてふなどもときし心はいづちか行きけむ。よの明け暮るゝも心もとなくいとまなきまでそこはかともなけれど行ふ。とそて〈三字今ぞ心動くイ〉まゝに、あはれさいひしを聞く人いかにをかしと思ひ見るらむ。はかなかりける世を、などてさいひけむと思ふ思ふ行へば、片時淚浮ばぬ時なし。人目ぞいとまさり顏なく耻かしければ、おし隱しつゝ明し暮らす。二十日ばかり行ひたる夢に、我がかしらをとりおろして、ひたひを分くと見る。惡し善しもえ知らず。七八日ばかりありて、我が腹のうちなるくちなはありきて肝をはむ、これを治せむやうは、おもてに水なむ入るべきと見る。これもあやし善しも知らねどかくしるし置くやうは、かゝる身のはてを見聞かむ人、夢をも佛をも用ゐるべしや用ゐるまじやと定めよと