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なり。五月にもなりぬ。我が家にとまれる人のもとより「おはしまさずとも、しやうぶ葺かではゆゝしからむを、いかゞせむずる」といひたり。「いでなにかゆゝしからむ。

  世の中にある我が身かはわびぬれば更にあやめも知られざりけり」

とぞいひやらまほしけれど、さるべき人しなければ心に思ひ暮さる。かくていみはてぬればれいの所にわたりて、ましていとつれづれにてあり。ながめになり〈ぬ脫歟〉れば草ども生ひ立ちてあるを、行ひのひまに掘りあかたせなどする。あさましき人、我がかどより、例のきらきらしう追ひ散らして渡る日あり。行ひし居たるほどに、「おはしますおはします」とのゝしれば、例の如くぞあらむと思ふに、胸つぶつぶとはしるに、ひき過ぎぬれば皆人おもてをまぼりかく〈はイ〉して居たり。我はまして二時三時まで物もいはれず。人は「あな珍らか。いかなる御心ならむ」とて泣くもあり。わづかにためらひて、「いみじう悔しう人にいひ妨げられて、今までかゝる里住をして、又かゝる目を見つるかな」とばかりいひて胸のこがるゝ事はいふ限もあらず。六月のつひたちの日、「御物忌なれど、みかどのしたよりも」とて文あり。怪しく珍らかなりと思ひて見れば「いた〈た衍歟〉みは今はも過ぎぬらむをいつまであるへにたる〈三字きイ〉すみ〈かイ有〉ぞ。いとびんなかめりしかばえ物せず。もの詣でゝけがらひ出で來てとゞまりぬ」などぞある。そこらにといまだきり〈かカ〉ぬやうもあらじと思ふに心うさもまさりぬれど念じてかへりごとかく、「いと珍しきはおぼめくまでなむ。こゝにはひさしくなりぬるをげにいかでかはおぼしよらむ。さても見給ひしあたりとは、思しかけぬ御ありきの度々になむ。すべて今まで世に侍る