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Page:Kokubun taikan 09 part1.djvu/58

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り。されど明け暮れ世の中の人のやうならぬを歎きつゝ盡きせず過ぐすなりけり。それもことわり、身のあるやうはよるとても人の見え怠る時は、人すくなに心細う、今は一人を賴む。たのもし人はこの十よ年のほどあがたありきにのみあり。たまさかに京なるほども四五條のほどなりければ我は左近のうまばを片岸にしたればいと遙なり。かゝる所も〈とカ〉も取りつくろひかゝはる人もなければいとあしくのみなり行く。これをつれなく出で入りするは殊に心細う思ふらむなど、深う思ひよらぬなめりなどちぐさに思ひ亂る。事繁しといふは何かこの荒れたる宿の蓬よりも繁げなりと思ひ眺ひるに、八月ばかりになりにけり。心のどかに暮らす日はかなき事いひいひのはてに、我も人〈兼家〉も惡しういひなりてうち怨じて出づるになりぬ。端の方にあゆみ出でゝ幼き人〈道綱〉を呼び出でゝ「我〈兼家〉は今はこじとす」などいひ置きて出でにける即ち這ひ入りておどろおどろしう泣く。「こはなどをぞ」といへどいらへもせで、ろんなうさやうにぞあらむと推しはからるれど、人の聞かむもうたて物狂ほしければ、問ひさしてとかうこしらへてあるに、五六日ばかりになりぬるに音もせず。例ならぬほどになりぬれば、あな物狂ほし、戯ぶれ事とこそ我は思ひしか、はかなきなかなればかくて止むやうもありなむかしと思へば、心細うて眺むる程に、出でし日つかひし、ゆ〈す脫歟〉るつきの水はさながらありけり。上にちり居てあり。かくまでとあさましう、

 「絕えぬるか影だにあらば問ふべきをかたみの水はみくさゐにけり」

など思ひしひしも見えたり。例の事にて止みにけり。かやうに胸つぶらはしき折のみあるが