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Page:Kokubun taikan 09 part1.djvu/57

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さて猶苦しげなれど念じて二三日の程に見えたり。やうやう例のやうになりもて行けば、例の程に通ふ。この頃は四月祭見に出でたればかの所にも出でたりけり。さなめりと見て迎ひに立ちぬ。待つ程のさうざうしければ橘の實などあるに葵をかけて、

 「あふひとかきけどもよそにたち花の」

といひやる。やゝ久しうありて、

 「きみがつらさを今日こそは見れ」

とぞある。にくかるべきものにては年經ぬるを、なと〈めカ〉げにとのみいひたらむといふ人もあり。歸りて「さありし」など語れば「くひつぶしつべき心ちこそすれとやいはざりし」とていとをり〈かカ〉しと思ひけり。』今年にせち聞し召すべしとていみじう騷ぐ。「いかで見むと思ふに所ぞなき。見むと思はゞ」とあるを聞きはさめて「すぐろく打たむ」といへば、「よかなり。物見つぐのひに」とてめうちぬ。喜びてさるべきさまの事どもしつゝよね〈ひカ〉の間靜まりたるに、硯引き寄せて手習に、

 「あやめ草生ひにし數をかぞへつゝひくや五月のせちに待たると〈るカ〉

とてさしやりたればうち笑ひて、

 「隱れぬに生ふる數をば誰か知るあやめ知らずに待たるなるかな」〈兼家〉

といひて、見せむの心ありければ、宮の御さじきの一續きにて二まありけるを別けてめでたうしつらひて見せつ。かくて人にくからぬさまにて十といひて、一つふたつの年は餘りにけ