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とあるはどに、わがたのもしき人〈倫寧長能著者父兄〉みちのくにへ出で立ちぬ。時はいとあはれなるほどなり。人〈兼家〉はまだ見馴るといふべきほどにもあらず。見ゆることはたゞささ〈一字衍歟〉しくめるにのみあり。いと心細く悲しきことものに似ず。見る人もいと哀に忘るまじきさまにのみ語らふめれど、人の心はそれに從ふべきかはと思へば、唯ひとへに悲しう心ぼそき事をのみ思ふ。今はとて皆出で立つ日になりて行く人もせきあへぬまであり。き〈止カ〉まる人はた况いていふ方なく悲しきに、時違ひぬるといふに〈まカ〉でもえ出でやらず。又みなる硯に文をおし卷きてうち入れて、又ほろほろとうち泣きて出でぬ。しばしは見む心もなし。みいではてぬるにためらひてより〈てイ有〉何事ぞと見れば、

 「君をのみたのむたつ〈びカ〉なるこゝろには行く末遠くおもほゆるかな」〈父倫寧〉

とぞある。見るべき人〈兼家〉見よとなめりとさへ思ふにいみじう〈かなしうイ有〉て、ありつるやうにおきて、とばかりあるほどにものしたり。目も見合せず思ひいりてあれば「などかよのつねのとにこそあれ。いとかうしもあるはわれを賴まぬなめり」などあへしらひ硯なる文を見つけて「哀」といひて、門出の所に、

 「我をのみたのむといへばゆくすゑのまつの千代をもきみこそは見め」〈兼家〉

となむ。かくて日の經るまゝに旅の空を思ひやるだち〈にカ〉いとあはれなるに、人〈兼家〉の心もいとたのもしげには見らん〈二字えカ〉ずなむありける。しはすになりぬ。橫河にものすることありて上りぬ。人「雪に降りこめられていと哀れに戀しき事多くなむ」とあるにつけて、