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Page:Kokubun taikan 09 part1.djvu/200

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きすこしおはする車とゞめておるゝ人。蟬のはよりもかろげなる直衣、指貫、すゞしのひとへなどきたるも狩衣姿にても、さやうにてはわかくほそやかなる三四人ばかり、さぶらひのもの又さばかりして入れば、もとゐたりつる人もすこしうち身じろきくつろぎて、かうざのもと近き柱のもとなどにすゑたれば、さすがにずゞおしもみなどして伏し拜み居たるを、講師もはえばえしう思ふなるべし。いかで語り傳ふばかりと說き出でたる。聽問すると立ち騷ぎぬかづく程にもなくて、よきほどにて立ち出づとて、車どものかたなど見おこせて、われどちいふ事も何事ならむとおぼゆ。見知りたる人をばをかしと思ひ、見知らぬは誰ならむそれにやかれにやと目をつけて思ひやらるゝこそをかしけれ。「說經しつ。八講しけり」など人いひ傳ふるに「その人はありつや、いかゞは」などさだまりていはれたるあまりなり。などかはむげにさしのぞかではあらむ。あやしき女だにいみじく聞くめるものをば、さればとて始めつ方はかちありきする人はなかりき。たまさかにはつぼさうぞくなどばかりして、なまめきけさうじてこそありしか。それも物まうでをぞせし。說經などは殊に多くもきかざりき。このごろその折さし出でたる人の命長くて見ましかば、いかばかりそしりひばうせまし。菩提といふ寺にけちえん八かうせしが、きゝにまうでたるに、人のもとより「とく歸り給へ、いとさうざうし」といひたれば、はちすのはなびらに、

 「もとめてもかゝるはちすの露をおきてうき世にまたは歸るものかは」

と書きてやりつ。まことにいとたふとく哀なれば、やがてとまりぬべくぞ覺ゆる。さうちう