Page:Kokubun taikan 09 part1.djvu/199

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やうりやうじき。猫はうへのかぎり黑くてことは皆白からむ。說經師は顏よきつとまもらへたるこそその說く事のたふとさも覺ゆれ。ほかめしつればふと忘るゝに、にくげなるは罪やうらむと覺ゆ。この詞はとゞむべし。すこし年などのよろしき程こそかやうの罪はえがたの詞かき出でけめ。今は罪いとおそろし。又たふとき事、だうしんおほかりとて、說經すといふ所にさいそにいきぬる人こそ猶この罪の心ちにはさしもあらで見ゆれ。藏人おりたる人、昔は御ぜんなどいふ事もせず、その年ばかりうちわたりにはまして影も見えざりける。今はさしもあらざめる。藏人の五位とてそれをしもぞいそがしうつかへど、猶名殘つれづれにて心一つはいとまある心ちぞすべかめれば、さやうの所に急ぎ行くを、一たび二たび聞きそめつれば、常にまうでまほしくなりて、夏などのいとあつきにもかたびらいとあざやかに、うすふたあゐ、あをにぶの指貫などふみちらして居ためり。ゑぼしにものいみつけたるはけふさるべき日なれど、くどくのかたにはさはらずと見えむとにや、急ぎ來てその事するひじりと物語して車たつるさへぞ見いれ、ことにつきたるけしきなる。久しく逢はざりける人などのまうで逢ひたるめづらしがりて近くゐより物語し、うなづき、をかしき事など語り出でゝ、扇ひろうひろげて口にあてゝ笑ひさうぞくしたるずゞかいまさぐり、手まさぐりにし、こなたかなたうち見やりなどして車のよしあしほめそしり、なにがしにてその人のせし八講、經供養な〈にイ〉どいひくらべ居たるほどに、この說經の事もきゝ入れず。なにかは、常にきくことなれば耳なれてめづらしう覺えぬにこそはあらめ。さはあらで講師ゐてしばしあるほどに、さ