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りつるげすをのこなどいと物うげに步みくるを、をるものどもはとひだにもえ問はず。外よりきたるものどもなどぞ「殿に何にかならせ給へる」などとふ。いらへには「なにのぜんじにこそは」とかならずいらふる。まことに賴みけるものはいみじうなげかしと思ひたり。つとめてになりてひまなく居りつるものもやうやう一人二人づゝすべり出でぬ。ふるきものゝさもえゆき離るまじきは、來年の國々を手を折りてかぞへなどしてゆるぎありきたるも、いみじういとほしうすさましげなり。よろしう詠みたりと思ふ歌を人のもとに遣りたるに返しせぬ。けさう文はいかゞせむ。それだにをりをかしうなどある返り事せぬは心おとりす。又さわがしう時めかしき處にうちふるめきたる人の、おのがつれづれといとまあるまゝに、昔覺えて殊なる事なき歌よみしておこせたる物のをりの扇いみじと思ひて、心ありと知りたる人にいひつけ〈四字とらせイ〉たるに、その日になりて思はずなる繪など書きてえたる。うぶやしなひ、うまのはなむけなどの使に祿などとらせぬ。はかなきくすだま、うづちなどもてありくものなどにも猶かならずとらすべし。思ひかけぬ事にえたるをばいと興ありと思ふべし。これはさるべき使ぞと心ときめきしてきたるに、たゞなるはまことにすさまじきぞかし。

むことりて四五年までうぶやのさわぎせぬ所。おとななる子どもあまた、ようせずはうまごなどもはひありきぬべき人の親どちのひるねしたる。傍なる子どもの心ちにも、親のひるねしたるはよりどころなくすさまじくぞありし。ねおきてあぶる湯は腹だゝしくさへこそ覺ゆれ。しはすのつごもりのなが雨。一日ばかりの精進の懈怠とやいふべからむ。八月のしら