Page:Kokubun taikan 09 part1.djvu/131

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の北の方に立てり。こと人多くも見ざりければ、人一人こち〈二字ふたりイ〉して立てれば、とばかりありて渡る人、我が思ふべき人もべいじう一人舞ひ人に一人まじりたり。この〈ころイ有〉ことなるこ〈とイ有〉なし。十八日に淸水へまうづる人に又忍びてまじりたり。そやはてゝまかづれば時は子ばかりなり。諸共なる人の所に歸りて物などものする程に、あるものども「この戌亥の方にめ〈ひイ〉なむみゆる」と、「出でゝ見よ」などいふなれば「もろこしぞ」などいふなり。うちには猶苦しきにたり〈三字方イ〉など思ふ程に、人々「かうの殿なりけり」といふにいとあさましういみじ。我が家もついぢばかり隔てたれば騷しう若き人をも惑しやしつらむ、いかで渡らむと惑ふにしも、車のすだれはかけられける。ものとはから〈四字さわがしイ〉うして乘りてこし程に、皆はてにけり。わがかたかく〈二字ばかりイ〉殘り、あなたのひともこなたにつどひたり。こゝには大夫ありければ、いかに土にやはしらすらむと思ひつる人も車に乘せ、かど强うなどものしければ、らうがはしき事もなかりけり。あはれ、をのことてよう行ひたりけるよと見聞くも悲し。渡りたる人々は、唯命のみわつかなりと見なげくに、火しめりはてゝしばしあれど、問ふべき人〈兼家〉は音づれもせず。さしもあるまじき所々よりも問ひつゝ〈くイ〉して、このわたりならむやの、うか〈たイ〉がひにて急ぎ見えし。よ〈かイ〉くもありしものを、ましても〈をイ〉なり〈くイ〉果てにけるあさましさ、かなた〈二字しき〉なんど語るべき人は、さすがに雜色や侍やと聞き及びける限は、語りつと〈聞き以下十一字流布本無〉聞きつるを、あさましあさましと思ふ程にぞかどたゝく。人見て「おはします」といふにぞ少し心落ちゐて覺ゆる。さて「こゝにありつるをのこどもの、きゝ吿げつるになむ驚きつる。あさましう來ざりけるが