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く。「さらばいとかひなからむことよ」とありて、「必ず今宵は」とあり。それもしるく、その後覺束なくて八九日ばかりになりぬ。かく思ひおきて、數にはとありしなりけりと思ひあまりて、たまさかにこれよりものしけること、

 「かた時にかへし夜數をかぞふればしぎのもろ羽もたゆしとぞなく」。

かへりごと、

 「いかなれやしぎのはねがきかき〈ずイ〉知らず思ふかひなき聲に鳴くらむ」

とはありけれど、驚かしても悔しげなる程をなむいかなるにかと思ひける。この頃庭もはらはず。花降り敷きて海ともなりなむと見えたり。今日は二十七日、雨昨日の夕よりくだり、風ののち〈二字そのイ〉花を拂ふ。三月になりぬ。木の芽少しこがくれになりて、祭の頃覺えてたるき〈三字さかき梢イ〉ふえ〈如元〉戀しう、いともそはれ〈四字ものあはれイ〉なるに添へても音なき事を猶驚しけるも悔し。それより〈れイ有〉いの絕えまよりも、安からず覺えけむは何の心にかありけむ。この月七日になりにけり。「今日ぞこれ縫ひて。愼むことありてなむ」とあり。珍らしげもなければ「うけ給はりぬ」などつれなう物しけり。晝ほた〈二字つかたイ〉より、雨のどかに〈ふりイ有〉はじめたり。十日おほやけは、八幡の祭の事とのゝしる。我は人のまうづめる所あめるにいと忍びで出でたるに、晝つ方かへりたれば、あるじの若き人々入りてもの見むと又渡る。さなりとあればかへりたる車もやがて出し立つ。又の日、かへさ見むと、人々の騷ぐにも、心いとあしうて臥しくる〈らイ〉さるれば、み〈むイ有〉心ちなきに、これかれそゝのかせば、唯び榔一つに四人ばかり乘りて出でたり。冷はれ〈二字ぜんカ〉院のみかど