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て、身をつめば、難波のことを、さるすまひにて、思ひ殘し、いひ殘すらむとまづ思ひやりける。かくてこと腹のせうとも京にて法師にてあり。こゝにかくいひ出したる人知りたりければ、それして呼び取らせて語らはするに「何かは。いと善き事なりとなむおのれは思ふ。そもそもかした〈こイ〉にまほ〈かイ〉りて物せむ。世の中いとはかなければ今はかたちをもことになしてむとてなむさゝ〈二字僧カ〉の處に月頃は物せらるゝ」などいひ置きて、又の日といふばかりに山越えに物したりければ、異腹にてこまかになどしもあらぬ人のふりはへたるをあやしがる。「何事によりて」などありければとばかりありてこの事をいひ出したりければ、まづともかくもあらで、いかに思ひけるにか、いといみじう泣き泣きて、とかうためらひて、「こゝにも今は限に思ふ身をばさるものにて、かゝる所にこれをさへひきさげてあるを、いといみじと思へどて〈もイ〉いかゞはせむとて〈ありイ有〉つるを、さらばともかくも、そこに思ひさだめてものし給へ」とありければ、又の〈日イ有〉歸りてさなむといふ。うへなきことにてもありけるかな。宿世やありけむ、いと哀なるに、「さらばかしこにまづ御文をものせさせ給へ」とものすれば、「いかゞはせて〈むイ〉。かく年ごろは聞えぬばかりに承り馴れたれば,たればかり覺束なくはおぼされずやとてなむ怪しとおぼされぬべきことなれど、この禪師の君に、心細き憂ひを聞えじを、傳へ聞えたる〈りカ〉けるに、いと嬉しくなむのたまはせしと承れば、喜びながらなむ聞ゆる。も〈けイ〉しうつゝましき事なれどあまたと承るには、睦しき方にても思ひ放ち給ふやとてなむ」などものしたれば、又の日返り事あり。喜びしなどありて、いと心ようゆるしたり。かの語らひける事の筋も