Page:Kokubun taikan 09 part1.djvu/110

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ず。淚のみうけれど、念じかへしてあるに、車寄せていと久しくなりぬ。申の時ばかりに物せしを、火ともすほどになりにけり。つれなくて動かねば、「よしよし我は出でなむ。きひぢ〈道綱〉にま〈か脫歟〉すとて立ち出でぬれば、とくとくと手を取りて、泣きぬばかりにいへば、いふかひもなきに出づる心ちぞさらに我にもあらぬ。大門引き出づれば、乘りくは〈は脫歟〉りて、道すがらうちも笑ひぬべき事どもを、ふさにあれど、ゆめぢかものぞいはれぬ。このもろともなりつる人〈大夫〉も、暗ければあへなむとて、同じ車にあれば、それぞ時々いらへなどする。はるはると到る程に、亥の時になりにたり。京には、晝、さるよしいひたりつる人々、心づかひしちりかいはき、戶どもあけたりければ、われにもあらずながらおりぬ。心も苦しければ、儿帳さし隔でゝ、うち臥す所にこゝにある人、ひやうと寄り來てふすといふ。「なでしこの種取らむとし侍り〈し脫歟〉かど根もなくなりにけり。吳竹も一すぢ倒れて侍りし。つくろはせしかど」などいふ。唯今いはでもありぬべき事かなと思へば、いらへもせであるに、ねぶるかと思ひし人〈兼家〉、いとよ<聞きつけて、このたびとり〈四字ひとイ〉車にて物しつる人の、さうじを隔でゝあるに、「聞い給ふや。こゝにことあり。この世をそむきて、家を出でゝ、菩提を求むる人に、唯今こゝなる人々がいふを聞けば、なでしこはなでおほしたるや、くれにければたてやり〈十字吳竹はたてたりイ〉やとはいふ物か」と語れば聞く人いみじう笑ふ。あさましうをかしけれど露ばかり笑ふ氣色も見せず。かゝるに夜やうやうなかばばかりになりぬるに、「方はいづかたかふたがる」といふに、數ふればうべもなくこなたふたがりたりけり。「いかにせむ。いとからきわざかな。いざ諸共に近き所へ」など