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Page:Kokubun taikan 09 part1.djvu/101

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見れば、ほたかし〈四字ほたるはおどろくまでてらすめり里にてむかしイ〉もの思ひうすかりし時二聲と聞くとはなしにと、腹だゝかりし時鳥もうち解けて鳴く。水鷄はそこと思ふまでたゝく。いといみじげさまさるもの思ひのすみかなり。人やりならぬわざなれば、問ひとぶらはぬ人ありとも、ゆめにつらくなど思ふべきならねば、いと心安くてあるを、唯かゝるすまひをさへせむとはかまへたりける身の宿世ばかりをながむるにそひて、悲しき事は日頃の長しやうじしつる人の、たのもしげなけれど、みゆづる人もなければ、かしらもさし出でず。松の葉ばかりに思ひなりにたる身の同じさまにてくはせたれど、えもくひやらぬを見るたびにぞ淚はこぼれまさる。かくてあるはいと心安かりけるを唯淚もろなるこそいとくるしかりけれ。夕暮の入相の聲ひぐらしのね、めぐりの小寺ちひさき鐘ども、我も我もとうちたゝきなどし、前なる岡に神の社もあれば、法師ばら讀經〈など以下廿一字流本無〉まつりなどする聲を聞くにぞいとせむ方なくものは覺ゆる。かく不淨なるほどは、夜晝の暇もあればはしの方に居て詠むるを、この幼き人「入りね入りね」といふけしきを見れば、物を深く思ひ入れさせじとなるべし。「などかくはのたまふ。猶いとあ〈らイ有〉じ。ねぶたくも侍り」などいへば、「ひた心になくもなりつべき身を、そこにさはりて今まであるを、いかゞせむずる。世の人のいふなるさまにもなりなむ。むげに世になからむよりは、さてあらばおぼつかなからむほどに通ひつゝなき物に思ひなして見給へ。かくていとありぬべかりけりと、身一つに思ふを、唯いとかくあしき物して、物を參れば、いといたく瘦せ給ふを見るなむいといみじき。形ことにてもきやうにある人こそ〈いみじきかたちことにてもこそ十四字流本有恐重複〉はと思へど、そ