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うち叩きて閼伽たてまつるも、山寺の小法師ばらなどの心ちぞするや。少將この中將などしきみをりて參れるもいつならひてかと哀に御らんぜらる。今一たびいかで世を御心にまかするわざもがなと、人の心のけぢめわかるゝにつけても深う思しまさる事のみ數しらず。都には十月廿五日御禊の行幸なり。女御代には大炊御門大納言信嗣のむすめいださるときこゆ。十月十二日より五節はじまる。前の御代には談天門院の御忌月にてとまりにしかばさうざうしかりしに、めづらしくて若きうへ人どもなど心ことに思へり。隱岐の御門の御めのとなりし吉田の一品宣房も、當代につかへて五節など奉る。こゝろの中ぞあはれにおしはからるゝ。定房の大納言もさるべき雜務の事などにはいでつかへけり。春宮大夫は內大臣になりて、大甞會の時もたかみくらの行幸に前行とかやいふ事などつとめ給ふ。右のおとゞ兼季も太政大臣になりて、淸暑堂の神樂に琵琶つかうまつりなどきこえて、よろづめでたくあらまほしくて年もくれぬ。まことやこの卯月の頃より年の名かはりにしぞかし。正慶とぞいふなる。大塔の法親王楠の正成などは猶同じ心にて世を傾ぶけむ謀をのみめぐらすべし。正成は金剛山千はやといふ所にいかめしき城をこしらへてえもいはず武きものども多く籠りゐたり。さて大塔の宮の令旨とて國々の兵をかたらひければ、世にうらみあるものなどこゝかしこにかくろへばみてをるかぎりは集りつどひけり。宮は熊野にもおはしましけるが、大峯をつたひて吉野にも高野にもおはしまし通ひつゝ、さりぬべきくまぐまにはよく紛れものし給ひて、武き御ありさまをのみ顯し給へば、いとかしこき大將軍にていますべしとて、附き