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この大夫はもとより中よきどちにて常に消息などつかはすに、かく世にほめらるゝをいとよしと思ひて兵衞督のもとへいひやる、

  「和歌の浦のなみもむかしにかへりぬと人よりさきにきくぞうれしき」。

かへし、

  「和歌の浦やむかしにかへる浪ぞともかよふこゝろにまづぞきくらむ」。

この爲定のはらから、中宮に宣旨にてさぶらふも、うへ例の時めかし給ひて若宮いでものし給へり。その宮の御めのとは師賢の大納言うけたまはりていみじうかしづき奉らる。又宮の內侍の御腹にも次々いとあまたおはします。一の御子は、藤大納言の御腹、吉田の大納言定房の家に渡らせたまふ。二の御子もいときらきらしとて源大納言親房の御あづかりなり。かくさまざまにおはしますをこの度いかで坊にとおぼしつれど、かねてだにもよほし仰せられし事なればあづまより人まゐりて本院の一の宮を定め申しつ。いとけやけくきこしめせど、いかゞはせむにて七月廿四日に皇太子の節會行はる。陣の座より引きわたして持明院殿に人どもまゐる。院の殿上にて祿などたまはる。常の事なれど俄にいとめでたし。八月になりて陽德門院の土御門東の洞院殿へ行啓はじめあり。先坊の宮は鷹司なれば、ま近きほどに世のおとなひきこしめす。入道の宮女院などの御心のうち今さらにいとかなし。本院新院ひとつ御車にたてまつりて先立ちて入らせ給ふ。行啓は東の洞院おもての棟門に御車とゞめて中門まで筵道をしきて步み入らせたまふ。御びんづらゆひていときびはにうつくしげなり。