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十四ばかりにやおはしますらむ、宮づかさども院の殿上人など多くつかうまつり、花ひらけたる心ちどもすべし。あはれなる世のならひなりかし。かくて今年も暮れぬれば嘉曆も二年になりぬ。一の宮御かうぶりして中務卿尊良親王ときこゆ。去年より內に御とのゐ所してわたらせ給ふ。む月の十六日の節會にめづらしく出で給ふ。御門も德治の頃帥にて七日の節にいでさせ給へりしためしおぼしいづるにや、大方ふるくは皆さこそありけれど、近頃はいたくかやうにはなかりつるを、御子たち御かうぶりの後は孰も昔おぼえて、さるべきをりをりいでつかへさせ給ふめり。今日の節會は常よりことにひきつくろはるゝなるべし。みこはすはうの上のきぬ奉れり。左大臣冬敎右大臣經忠、內大臣基嗣、右大將公賢、權大納言顯實、藤中納言實任、別當光經、三條中納言實忠、左衞門督公泰、權中納言藤房、宰相惟繼、親賢、爲定、冬信、國資などまゐれり。二の宮は西園寺宰相中將實俊のむすめの御腹なり。帥の御子世良の親王ときこゆ。昭慶門院とりわき養ひ奉らせたまふ。この宮は御めのと源大納言親房なり。それもうちうちうへの御ぞにて御門南殿へ出でさせ給へば御供にさぶらはせ給ふ。又常磐井の式部卿宮は龜山院の御子なれど、當代といとねんごろなる御中にてこの御子だちと同じやうに常はうちつれ御殿居などせさせ給ふ。今日もまゐりて御子だち步み續かせ給へるいとおもしろし。若き女房など心づかひことなる頃ならむかし。きさらぎになればやうやう故宮の御一めぐりの事ども永嘉門院にはいとなませ給ふもあはれつきせず。鷹司の大殿もうせ給ひぬ。この頃の世にはいと重くやんごとなくものし給へるにいとあたらし。北政所は中院の內の