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琴、敎宗朝臣笛、有賴宰相拍子とりて遊びくらし給ふ。御前の物どもなど、常の作法にことをそへてこまかにきよらなり。その後いくほどなく右大臣殿の御父君前關白殿家平、御惱重くなり給ひて御ぐしおろす。にはかなれば殿の內の人々いみじう思ひさわぐ。大かた若くてぞすこし女にもむつまじくおはしまして、この右大臣殿などもいでき給ひける。中頃よりは男をのみ御傍にふせ給ひて、法師の兒のやうにかたらひ給ひつゝ、ひとわたりづゝいと華やかに時めかし給ふ事けしからざりき。左兵衞督忠朝といふ人もかぎりなく御おぼえにて、七八年がほどいとめでたかりし。時すぎてその後は、成定といふ諸大夫いみじかりき。この頃は又隱岐守賴基といふもの、童なりし程よりいたくまどはし給ひて、昨日今日までの御召人なれば、御ぐしおろすにもやがて御供仕うまつりけり。病おもらせ給ふほども、夜晝御傍はなたずつかはせ給ふ。既にかぎりになり給へる時、この入道も御うしろにさぶらふに、よりかゝりながらきと御覽じ返して、「あはれ諸共にいでゆく道ならば、うれしかりなむ」とのたまひもはてぬに、御息とまりぬ。右大臣殿も御前にさぶらはせ給ふ。かくいみじき御氣色にてはて給ひぬるを、心うしとおぼされけり。さてその後かの賴基入道も病みつきて、あと枕も知らずまどひながら、常は人にかしこまるけしきにて、衣ひきかけなどしつゝ、「やがて參り侍る參り侍る」とひとりごちつゝほどなくうせぬ。粟田の關白のかくれ給ひにし後、「夢見ず」となげきしものゝ心ちぞする。故殿のさばかりおぼされたりしかば、とりたるなめりとぞいみじがりあへりし。