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ほひことにひゞきてくだる。まづ住吉へまうづ。道遙しつゝのゝしりて、九月にぞ玉津島へまうでける。歌どもの中に、大納言爲世、

  「今ぞしるむかしにかへるわが道のまことを神もまもりけるとは」。

かくて元應二年四月十九日勅撰は奏せられけり。續千載といふなり。新後撰集とおなじ撰者の事なれば、多くはかの集にかはらざるべし。爲藤の中納言、父よりは少し思ふ所加へたるぬしにて、今すこしこの度は心にくきさまなりなどぞ、時の人々沙汰しける。院にも內にもあさまつりごとのひまひまには、御歌合のみしげう聞えし中に、元亨元年八月十五日夜かとよ、つねよりことに月おもしろかりしに、うへ萩の戶にいでさせ給ひて、殊なる御遊などもあらまほしげなる夜なれど、春日の御榊うつし殿におはします頃にて、絲竹のしらべはをりあしければ、例の唯うちうち御歌合あるべしとて、侍從の中納言爲藤召されて、俄に題たてまつる。殿上にさぶらふかぎり、左右おなじほどの歌よみをえらせたまふ。左內のうへ、春宮大夫公賢、左衞門督公敏、侍從中納言爲藤、中宮權大夫師賢、宰相雅繼、昭訓門院の春日〈爲世の女〉、右に藤大納言爲世、富小路大納言實敎、洞院中納言季雄、公修、宰相實任、少將內侍〈爲佐の女〉、忠定朝臣、爲冬、忠守などいふくすしも、この道のすきものなりとて召しくはへらる。衞士のたく火も月の名たてにやとて、安福殿へ渡らせたまふ。忠定中將、晝の御座の御はかしをとりてまゐる。殿上のかみの戶をいでさせ給ひて、無名門より右近の陣の前をすぎさせたまへば、遣水に月の映れるいと面白し。安福殿の釣殿に障子たてゝ、ひんがし面におはします。上達