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をかし。「「さても岩淸水のながれをわけて關の東にも若宮ときこゆる社おはしますに、八月十五日都の放生會をまねびて行ふ。そのありさままことにめでたし。將軍もまうで給ふ、位あるつはもの諸國の受領どもなどいろいろの狩衣、思ひ思ひの衣重ねて出でたちたり。あかはしといふ所に將軍とゞめておりたまふ。上達部はうへのきぬなるもあり。殿上人などいと多くつかまつる〈つかうまつれりイ〉。この將軍は中務の宮の御子なり。この頃權中納言にて右大將かね給へれば、御隨身ども花を折らせてさうぞきあへるさま都めきておもしろし。法會のありさまも本社にかはらず。舞樂、田樂、師子がしら、やぶさめなどさきざま所にしつけたる事どもおもしろし。十六日にも猶かやうの事なり。棧敷どもいかめしく造り並べていろいろの幔幕などひき續けて將軍の御棧敷の前には相摸守をはじめそこらの武士どもなみゐたるけしき、さまかはりてこのましううけはりたる心ちよげに、所につけては又なく見えたり。その後いくほどなく鎌倉よりうちさわがしき事出できて、皆人きもをつぶしさゝめくといふ程こそあれ、將軍都へ流され給ふとぞ聞ゆる。めづらしき言の葉なりかし。近く仕うまつるをとこ女いと心ぼそく思ひなげく。たとへば御位などのかはる氣色に異ならず。さてのぼらせ給ふありさまいとあやしげなる網代の御輿をさかさまに寄せてのせ奉るもげにいとまがまがしき事のさまなり。うちまかせては都へ御のぼりこそいとおもしろくもめでたかるべきわざなれど、かく怪しきは珍らかなり。御母御息所は近衞大殿と聞えし御女なり。父みこの將軍にておはしましゝ時の御息所なり。先に聞えつる禪林寺殿の宮の御方も同じ御腹なるべし。文