Page:Kokubun taikan 07.pdf/672

提供:Wikisource
このページは校正済みです

永三年より今年まで廿四年將軍にて天下のかためといつかれ給へれば、日の本の兵をしたがへてぞおはしましつるに、今日はかれらにくつがへされてかくいとあさましき御有樣にてのぼり給ふ。いといとほしうあはれなり。道すがらも思し亂るゝにや御たゝう紙の音しげう漏れ聞ゆるに、武きものゝふも淚おとしけり。さてこのかはりには一院の御子御母は三條內大臣公親の御むすめ、御匣殿とて侍ひ給ひし御腹なり。當代の御はらからにて今少しよせ重くやんごとなき御有樣なれば、唯受禪の心ちぞする。もとの將軍おはせし宮をば造り改めていみじうみがきなす。つはものゝすぐれたる七人御むかへにのぼる中に、いひぬまの判官といふもの前の將軍のぼり給ひし道もまがまがしければあとをも越えじとて足柄山をよぎてのぼるなどぞ、あまりなる事にや。みこは十月三日御元服したまひて、久明の親王ときこゆ。おなじき十日の日、院よりやがて六波羅の北の方さきさきも宮のわたり給ひし所へおはして、それよりぞあづまに赴かせ給ふ。同廿五日鎌倉へつかせ給ふにも御關むかへとてゆゝしき武士どもうちつれてまゐる。宮はきくのとれんじの御輿に御簾あげて、御覽じ習はぬゑびすどものうち圍み奉れるたのもしく見給ふ。しのぶをみだれ織りたる萠黃の御狩衣、紅の御ぞ、濃き紫の指貫奉りていとほそやかになまめかし。いひぬまの判官とくさの狩衣、靑毛の馬に金のかな物の鞍おきて隨兵いかめしく召し具して御輿のきはにうちたり。都にてたとへば行幸にしかるべき大臣などの仕うまつり給へるによそへぬべし。三日が程はわうばんといふ事、又馬御覽、何くれといかめしき事ども鎌倉うちのけいめいなり。宮の中のかざ