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かにをかしき所用意してゐてわたし奉りつゝ、猶自らはさすがに世のつゝましければ忍びつゝぞ御とのゐしける。そこにてこそ御子もうみ給ひけれ。この中將ざえかしこくて末の世にはことの外にもてなされて、まづ一品してしばしおはせし頃、御百首の歌に、

  「位山のぼりはてゝも峰におふる松にこゝろをなほのこすかな」。

さてつひに內大臣までのぼられき。さて元應のころかとよ、百首歌奉りし中に、

  「あつめこし窓の螢のひかりもて思ひしよりも身をてらすかな」

とよまれ侍りき。有房と聞えしが、若くての世の事なるべし。新陽明門院も禪林寺殿のしもの放出につれづれとしておはします程に、松殿の宰相中將かねつぐ、いかゞしたりけむ常に參り給ひしほどに、はてにはその宰相中將の御子に世をのがれたる人ありき。その御房におぼしうつりてかぎりなくおぼしたりしほどに、御子をさへうみ給ひき。その姬君は初は富小路の中納言秀雄の北の方にておはせしが、後には歡喜園の攝政ときこえ給ひし末の御子に、基敎の三位の中將と聞えしうへになりてうせ給ふまでおはしき。故女院いとほしくし給ひしかば御そうぶんなどいといとまうにありき。さのみかゝる御事どもをさへ聞ゆるこそ、物いひさがなき罪さり所なけれど、よしや昔もさる事ありけりと、この頃の人の御ありさまもおのづから輕き事あらば、思ひゆるさるゝためしにもなりてむものぞと思へば、遠き人の御事は今は何の苦しからむぞとて少しづゝ申すなり」」とうち笑ふもはしたなし。「「いづらこの頃は誰かあしくおはする」」と問へば、「「いないなそれはそらおそろし」」とて頭をふるもさすが