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「かやうの方までもいとめでたくおはします」とぞふるき人々申すめりし。かへらせ給へる御贈物どもいとさまざまなる中に、えんぎの御手本を鶯のゐたる梅の造枝につけて奉らせ給ふとて、院のうへ〈後嵯峨〉

  「梅が枝に代々のむかしの春かけてかはらずきゐる鶯のこゑ」。

御返しをわすれたるこそ老のつもりうたて口をしけれ。その年にや五月の頃、本院龜山殿にて如法經書かせ給ふ。いとありがたくめでたき御事ならむかし。後白河院こそかゝる御事はせさせ給ひけれ。それも御ぐしおろして後の事なり。いとかくおぼし立たせ給へるいみじき御願なるべし。さるは數多度侍りしぞかし。男は花山院の中納言〈もとつぐ〉一人さぶらひ給ひける、やごとなき顯密の學士どもを召しけり。昔上東門院も行はせ給ひたりしためしにや、大宮の院同じく書かせおはしますとぞ承りし。十種供養はてゝ後は淨金剛院へ御自ら納めさせ給へば、關白、大臣、上達部步みつゞきて御供つかうまつられけるも、さまざまめづらしくおもしろくなむ。その年九月十三夜、龜山殿の棧敷殿にて御歌合せさせたまふ。かやうの事は白河殿にても鳥羽殿にてもいとしげかりしかど、いかでかさのみはにて皆漏しぬ。この度は心ことにみがゝせ給ふ。右は關白殿にて歌どもえりとゝのへらる。左は院の御前にて御覽ぜられける。このほど殿と申すは圓明寺殿〈又一條殿と申す。〉の御事なり。新院の御位の始つ方攝政にていませしが又この二〈一イ〉年ばかり歸らせ給へり。前の關白殿は院の御方に侍らはせ給ふ。その外すぐれたるかぎり、右は關白殿今出川の大きおとゞ、皇后宮御父の左大臣殿より下みなこの道