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ひしが、劔璽につきて渡り參れりしを、忍び忍び御覽じけるほどに、その御腹にいでものし給へりしかど、當代生れさせ給ひにし後は、おしけたれておはしますに、又建長元年后腹に二宮さへさし續きひかりいで給へれば、いよいよ今は思ひ絕えぬる御契のほどを、私物にいとあはれと思ひ聞えさせ給ふ。源氏にやなし奉らましなどおぼすに、猶飽かねば、唯御子にてあづまのあるじになし聞えてむとおぼして、建長四年正月八日、院の御まへにて御冠し給ふ。御門の元服にもほとほと劣らず、くらつかさ何くれきよらを盡し給ふ。やがて三品のくらゐたまはり給ふ。御年十一なるべし。中務卿宗尊親王と申すめり。おなじ二月十九日都をいで給ふ。その日將軍の宣旨かうぶり給ふ。かゝるためしはいまだ侍らぬにや、上下めづらしくおもしろき事にいひさわぐべし。御迎にあづまの武士どもあまたのぼり、六波羅よりも名あるもの十人御送にくだる。上達部殿上人女房などあまたまゐるも、院中のほうこうにひとしかるべし。かしこに侍ふともかぎりあらむつかさかうぶりなどは、さはりあるまじとぞ仰せられける。何事も唯人がらによると見えたり。きはことによそほしげなり。誠におほやけとなり給はずばこれよりまさること何事かあむと〈とイ無〉にぎはゝしく華やかさはならぶ方なし。院のうへもしのびて粟田口のほとりに御車たてゝ御覽じおくりけるこそあはれにかたじけなく侍れ。きびはに美くしげにてはるばるとおはしますを、御母の內侍はあはれにかたじけなしと思ひ聞ゆべし。かゝればもとの將軍賴嗣三位中將は、その四月に都へのぼり給ひぬ。いとほしげにぞ見え給ひける。さて今下り給へるをもて崇め奉るさまいはむかたなし。