Page:Kokubun taikan 07.pdf/579

提供:Wikisource
このページは校正済みです

はてぬれば後朝の儀式なほいみじ。法親王の御布施被物五かさね〈このうち二重織物〉御法服一具、鈍色一具、包物は絹十疋、錦一包、關白殿とりて奉りたまふ。次々の衆僧には大中納言ほどほどに隨ふべし。導師の布施、久安仁安など又建曆寬喜などの度は別當とりたりけれど、今日はその人まゐらねば、忠高の中納言とりけり。殿上人は廿餘人まゐる。萬の事人がらと見えて、いとめでたし。かやうの事どもにて今年もくれぬ。又の年寬元二年あづまの大納言賴經の君、一とせ二歲にて下り給ひし峯殿の御子ぞかし。惱み給ふよし聞えしが、御子の六つになり給ふに讓りて都へ御かへりときこゆ。若君はその日やがて將軍の宣旨下され、少將になり給ふ。賴つぐと名のり給ふ。泰時朝臣もおとゞし入道して、うまごの時賴の朝臣に世をば讓りにしかば、この頃は天の下の御後見はこの相摸守時賴の朝臣つかうまつれり。いみじうかしこきものなれば、めでたき聞えのみありてつはものも靡き從ひ、大かた世もしづかにをさまりすましたり。かくて寬元も四年になりぬ。正月廿八日春宮に御位をゆづり申させたまふ。この御門も又四つにぞならせ給ふ。めでたき御ためしどもなれば行く末も推し量られ給ふ。光明峯寺殿御三郞君、左大臣〈さねつね〉のおとゞ御年二十四にて攝政したまふいとめでたし。御兄の福光園院殿もと關白にておはしつる、恨みてしぶしぶにおはしけれど力なし。御はらから三人までぜふ錄し給へるためし、古くは謙德公伊尹、忠義公兼通、東三條大入道殿兼家、その又御子ども中關白殿、粟田殿、法成寺入道殿、これふた度なり。近くは法性寺殿の御子ども、六條殿〈ともざね〉、松殿〈もとふさ〉、月輪殿〈かねざね〉これぞやがて今の峰殿の御おほぢよ。かやうの事いとたまたまあれ