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じき十月十一日は土御門の院の御十三年とて、大やけより御法事行はるゝもいとめでたし。大原にて御八講あるべければ承明門院も兼てより渡らせ給ひ、上達部殿上人參り集ふさまもこよなし。十二月一日は石淸水の社に行幸あり。當代には始めたる度なればよろづ淸らをつくさる。文治建久の例をまねばる。關白殿御馬にて仕うまつり給ふ。瀧口十二人馬ぞへに具し給ふ。色々の綾錦目も耀くばかり立ち重ねたり。左右大將〈たゞいへ、さねもと、〉の番長、又心も詞も及ばずいとみつくしたり。左大將のは馬にて前行、右大將のは張綱にてうつしの馬をひかせけるとぞ。左大將は紅梅の二重織物の半び下襲、萠黃の織物の上の袴、右大將はうら山吹の半び下襲、左衞門の督〈さねふぢ〉は梅がさねの浮織物の半び下がさね、浮紋のうへの袴、殿上人は花山院の中將道雅の君ばかりぞ萠黃のうへの袴、うら山吹の半び下がさね着給へりける。その外はことなるも見えず。御社にてのかた舞は例の上達部もたゝれけり。笛二位中納言〈よしのり〉、拍子左衞門の督など勤められけり。數々めでたくて、又の日午の時ばかりにぞ歸らせ給ひける。おなじ五日やがて賀茂の社に行幸し給ふ。關白殿今日も御馬なり。上達部殿上人さきにいたく變らず。別當通成いみじうきらめかれたり。けさうし給へるをぞ「若き人なれども、檢非違使の別當白きものつくる事やある」など、ふるき人うちさゞめきけるとかや。春宮大夫〈きんすけ〉馬ぞへ八人具し給ひけり。權大納言實雄、土御門大納言顯定、權中納言公親、同顯親、左衞門督實藤などいづれも淸らにめでたし。殿上人中將には實久の朝臣、爲氏、實春、經定、顯義、基雅、通雅、通定、定平、實直、諸嗣、雅嗣、輔通、雅家、雅忠、少將にはたかかぬ、きん直、すゑ實、