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御輿、御子は靑絲毛の御車、近衞大將、檢非違使の別當をはじめてゆゝしき人々仕うまつらる。こよなき見物にてぞ侍りける。閏七月二日、內にてみ子の御いかきこしめす。くら司より事ども調じて參る。御膳の物屯食折櫃のもの、何くれ心ことなり。時なりてうへこなたに渡らせ給ふ。御供に關白殿、堀川大納言〈ともざね〉、大夫〈きんすけ〉、左大將〈たゞまさ〉、關白殿の御子の三位中將〈みちよし〉、まゐり給ふ。うへくゝめ奉らせ給ふさまいといとめでたし。同じ事のやうなればこまかには書かず。かくて八月十日すかやかに太子にたち給ひぬ。〈後の深草の院の御事なり。〉おとゞ御心おちゐてすゞしくめでたう思すことわりなり。「大方のいみじかりし世の響に女み子にておはせましかば、いかにしほしほと口惜しからまし。いときらきらしうてさし出で給へりし嬉しさを思ひ出づれば、見奉るごとに淚ぐまれて忝う覺え給ふ」とぞ年たくるまで常はおとゞ人にものたまひける。中比はさのみしもおはせざりし御家の、近くよりはことのほかに世にもおもくやんごとなう物し給ひつるに、この后の宮參り給ひ、春宮生れさせ給ひなどして、いよいよ榮えまさり給ふ行く末推し量られていとめでたし。父の入道殿さへ御命ながくて、かゝる御末ども見給ふもさこそは御心ゆくらめとおし量るもしるく、其の年の十月七日かとよ、都を立ちて熊野に詣で給ふ。作法のゆゝしさ、昔の古き御代の御幸どもにも稍たちまさる程にぞ侍りし。御子うまごまでひき具し給ふ。大納言に實雄〈御子〉、公相〈御孫〉、公基。前藤大納言とありしは爲家の事にや。坊門前大納言もつゐせふに京出はこせふせられたり。大宮中納言〈きんもち〉、左宰相の中將〈さねたふ〉、右兵衞督〈ありすけ〉、殿上人は三十餘人侍りけり。いといみじかりし事どもなり。かくて同