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つるにめづらしくめでたし。そのしはすに御即位、明くる年貞應元年正月三日御元服したまふ。御いみな茂仁と申す。御かたちもなまめかしくあてにぞおはします。御母基家中納言のむすめ北白川院と申しき。家實のおとゞ又攝政になりかへらせ給ひて、よろづおきてのたまふも、さまざまに引きかへしたる世なりかし。又の年五月の頃法皇かくれさせ給ひぬれば、天下みなくろみわたりぬ。うへも御ぶくたてまつる。きびはなる御程に、いといみじう哀なる御事なめり。前の御門は四つにて廢せられ給ひて、尊號などの沙汰だになし。御母后〈東一條院〉も山里の御すまひにて、いと心ぼそくあはれなる世をつきせずおぼしなげく。この宮は故攝政殿〈後京極よしつね〉の姬君にてものし給へば、歌の道にもいとかしこう渡らせ給へば、大かた奧ふかうしめやかに重き御本性にて、はかなき事をもたやすくもらさせ給はず、御琴などもかぎりなき音を彈きとり給へれど、をさをさ搔きたてさせたまふ世もなく、あまりなるまでうもれたる御もてなしを、佐渡の院もかぎりなき御志の中に飽かずなむ思ひ聞えさせ給ひける。かの遠き御わかれの後は、いみじうものをのみおぼしくだけつゝ、いよいよしづみふしておはしますに、ふるく仕うまつりける女房の、里にこもり居たりけるもとより、あはれなる御せうそこをきこえて、十月一日の頃、御衣がへの御ぞを奉りたりける御返事に、

  「思ひいづるころもはかなしわれも人もみしにはあらずたどらるゝ世に」。

又御手ならひのついでに、からうじてもれけるにや、

  「消えかぬるいのちぞつらきおなじ世にあるもたのみはかけぬちぎりを」。